伊吹山百名山
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標高:1,377m
登山道がよく整備されており、百名山の中では登りやすい山だと言われています。また、9合目まで車道があり、交通の便が良いことから観光地としても親しまれています。




































伊吹山に対した深田久弥の言葉
ショウジョウバカマが雪融け間に、もう花を開いている。
その麗桜(うらら)から静から山頂で過ごした一時間は、まさにこの世の極楽であった。
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標高:2,160m
草津白根山は、白根山、逢ノ峰、本白根山の総称と呼ばれることもある活火山です。温泉で有名な草津や万座からも近く、古くから湯治客をはじめ、温泉観光を兼ねて気軽に登れる山として親しまれています。白根山は湯釜と呼ばれたエメラルドグリーンに広がる美しい火口湖を持ち、本白根山周辺は整備されたハイキングコースが豊富にあって様々な高山植物がハイカーの目を和ませてくれます。※平成30年9月28日より、火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)が発表されています。最新の火山情報をご確認ください。※

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| 草津白根山 | |
|---|---|
| 渋峠より望む | |
| 標高 | 2,160 m |
| 所在地 | 日本 群馬県吾妻郡草津町 |
| 位置 | 東経138度31分40秒座標: |
| 種類 | 活火山 ランクB・常時観測火山 |
| 草津白根山の位置草津白根山 – 地理院地図草津白根山 – Google マップ | |
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| プロジェクト 山 | |
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草津白根山(くさつ しらねさん)は、日本の北関東、群馬県吾妻郡草津町に所在する活火山である。標高は2,160メートル。正式名称は白根山であるが、他の白根山と区別する必要のある場合の名称として地域名「草津」を冠した草津白根山の名で呼ばれる。また、近隣の逢ノ峰と本白根山を含めた三山の総称とすることもあり、この場合は標高2,171メートルの本白根山が最高峰となる。一つの火山の山体として捉える際は後者の考え方をとる(特に2018年の本白根山での噴火以降は、後者の意味で扱われることが増えている)。
山頂付近は白い山肌が広がっているのが特徴であるが、1882年の噴火以前は火口付近まで緑が広がっていたという[1]。山頂付近には複数の火口湖が形成され、湯釜、水釜、涸釜と呼ばれている[2]。かつて、山腹にはいくつかの硫黄鉱山が存在し[2]、鉱山跡が現在も残っている。
火山山体として捉えると多数の火口と溶岩噴出口が山頂付近に集まった単成火山群的な特徴を有する[3]。約5000年前の噴火で形成された火口は北東-南西方向に数本の列で並ぶ[3]。

湯釜(ゆがま)は、直径約300メートル、水深約30メートル、水温約18℃の火口湖である。pHが1.0前後であり、世界でも有数の酸性度が高い湖と言われている[4]。これは火山ガスに含まれる塩化水素や二酸化硫黄が水に溶け込み、塩酸や硫酸となったためと考えられている[5]。湖水は白濁した青緑色を呈する。湖水に溶け込んでいる鉄イオンや硫黄などが特定の波長の光を吸収するため、このように見えると考えられている[5]。
湖底や沿岸には硫黄が沈殿しており、戦前から1960年頃まで鉱山会社によって採取されていた。同時に噴気孔から噴出する硫黄分を含む蒸気からの硫黄採取も行われており、湖岸には硫黄運搬用のトロッコやリフトが敷設され、事務所や作業所が立ち並んでいた。噴火にともなう高温の蒸気や火山性ガスによって鉱山労働者に死傷者が出ることもしばしばあったという[6]。
火口縁には湯釜を望む展望台が設置されている。
なお、後述の噴火警戒レベルの引き上げに伴い、2014年6月3日から2017年6月15日までは湯釜の周辺への立ち入りができなくなっていた。
草津白根山では、気象庁が運用を開始した2007年12月1日から噴火警戒レベルが設定されている。群馬県と草津町はレベル1(平常)の段階でも第1次規制として山頂火口の湯釜から半径500メートル以内の立ち入りを制限し、当初は夏場の観光シーズンにのみ規制緩和して火口縁の展望台まで続く歩道を開放していた。
しかし、2009年4月10日に半径500メートル域内のごく小規模な火山灰の噴出などへの警戒を呼びかける噴火予報が発表され、その後火口内で新たな噴気が確認されたことから、2010年4月8日に開催された草津白根山防災会議協議会において、第1次規制の継続と当面の間緩和措置が見送られた。
2014年3月から湯釜周辺で火山性地震が増加し、4月頃からわずかではあるが山体の膨張を示す変動が観測された。その後も様々な火山活動の活発化を示す兆候が現れてきたことを受け、2014年6月3日に気象庁は噴火警報を発表し、噴火警戒レベルを「レベル2(火口周辺規制)」に引き上げた。これを受け、即日群馬県は国道292号の草津町殺生河原駐車場前から嬬恋村万座三叉路までの8.5キロメートルを通行止めとし、草津町と嬬恋村は第2次規制区域内の登山道を立ち入り禁止とした。その後の同年6月14日に規制が緩和され、日中の8:00 – 17:00に限り国道292号の通行は可能になったが、途中山頂の半径1キロ以内を走る2.5キロメートルの区間は駐停車禁止となり、駐車場や売店も閉鎖された。
2017年6月7日には火山活動の低下により噴火警戒レベルが「レベル1(活火山であることに留意)」に引き下げられ、立ち入り規制が湯釜火口の1キロメートル圏内から500メートル圏内に緩和された[7]。これを受けて6月15日に国道292号の規制が解除され、駐車場と売店の営業も再開された。
2018年1月23日午前10時2分頃、本白根山の鏡池北火口から、直前まで目立った予兆もなく噴火し[8]、気象庁は午前11時5分に噴火警戒レベルを「レベル2(火口周辺規制)」に引き上げ、さらに噴石が1キロメートル以上飛んでいることが明らかとなったため午前11時50分には噴火警戒レベルを「レベル3(入山規制)」に引き上げ、警戒範囲を本白根山鏡池付近から2キロメートルとした[9]。この噴火による噴石で1名が死亡、11名が負傷[10]。多数の監視カメラが向けられていた湯釜ではなく、全く監視していない鏡池付近からの噴火であったため、気象庁側は遅れて察知することになった。詳細は「本白根山#火山活動」を参照
2018年1月の噴火を受け、同年3月16日から、気象庁は草津白根山の噴火警戒レベルを本白根山と白根山(湯釜付近)とで分けて発表することにし、これに伴い、白根山(湯釜付近)はレベル1を“継続”という形となった(本白根山はレベル3から2に引き下げ)[11][12]。本白根山を中心とする規制範囲が縮小されたことで、同年4月20日に湯釜の近くを通る国道292号志賀草津道路の冬季閉鎖が解除された[13]。しかし、翌日夜に湯釜付近での火山活動が活発となり、翌22日付で湯釜付近もレベル2に引き上げられた[14]。これにより、志賀草津道路も冬季閉鎖解除からわずか2日で一部区間が通行止めとなった[15]。
2019年4月19日、道路管理者の群馬県から提示された条件を草津町に厳守させることを条件として志賀草津道路の冬季閉鎖が解除された(噴火警戒レベルは2)。しかし、条件の一つにある『全車を一旦停車させ、安全対応について告知するチラシを配布する』が西側において委託している草津観光公社の独断で一切行われておらず、それに伴って本来禁止されているオープンカーも通行していたことが判明し、4月24日に再び閉鎖された[16]。その後は天候状況を判断しながら解放されていた。5月15日から火山性地震が増えているとして、同18日より再閉鎖、6月1日より再開通。その後も、冬季閉鎖期間を除き、火山性地震および火山性微動が基準値以上観測されるなど火山活動が活発化した場合、数日から数週間程度の通行止め期間を経て活動が沈静化した場合再開通する、という経緯を繰り返している。
東京工業大学火山流体研究センターは、主に草津白根山を研究対象として、「マグマ中の揮発性成分の挙動」、「火山体内部の熱水系」、「火山ガス放出量の連続測定法」などを研究している[17]。
湯釜の湖水および湖底泥中にはランタノイド系列のセリウム、サマリウム、ジスプロシウム、イッテルビウムなどの元素が比較的高い濃度で含まれ、『偶数の原子番号をもつ元素の存在率は、その前後の奇数の原子番号の元素の存在率よりも大きい』という元素の存在量に関するオッド‐ハーキンスの法則(英語版)が成り立っている[18]。
ここでは、火山活動を含む当地域についての全ての事象を対象とした全史を取り扱う。火山活動史を第一に表し、それに関係する地域史と関係しない地域史(地域開発史、防災史、火山活動と関係の薄い天災と人災、事件、その他諸々)を第二に表す。
先史時代における火山活動について解説する。第1噴火期57万年前頃。円錐形の松尾沢火山が形成された。中心火道は本白根沢源頭付近。第2噴火期37万年前頃からの2〜3万年間。太子火砕流を流出させ、現在の草津白根山の山体がほぼ形成される。第3噴火期約1万8000年前からの活動で、白根火砕丘と平兵衛池溶岩を形成。
約1万年前からの主な活動歴は以下の通り[21]。
| 噴火名 | 年代 | 噴火様式 | 堆積物の種類 | VEI |
|---|---|---|---|---|
| 9L火山砂・香草溶岩噴火 | 8.5ka | マグマ噴火 | 降下火砕物と溶岩流 | 3 |
| 水釜溶岩円頂丘噴火 | 溶岩ドーム | |||
| 熊倉軽石噴火 | 5.7ka | 降下火砕物 | 2 | |
| 本白根火砕丘列噴火 | 3ka | 水蒸気噴火、降下火砕物、溶岩流 | 4 | |
| 弓池マール噴火 | ? | 火砕物 | ||
| 13D火山灰噴火 | 2.5ka | 降下火砕物 | 3 | |
| 草津湯釜13.7D | 2ka | ? | 2 | |
| 草津湯釜13.8WL噴火 | 1.999ka | 降下火砕物 | 3 | |
| 草津湯釜13.9D噴火 | 1.99ka | 2 | ||
| 1.5ka[22] | マグマ噴火 |
注記:ka=1000年前、西暦2000年を0kaとする[21]。
有史時代における重要な火山活動について解説する。広義の草津白根山全体の活動を網羅しているが、山の名称が明記していない場合は、基本的に狭義の草津白根山を指す。
詳細は「本白根山#火山活動」を参照
| この節の加筆が望まれています。 |









| ウィキメディア・コモンズには、草津白根山に関連するカテゴリがあります。 |
公共交通機関(白根火山停留所まで)
(東京方面から)
自動車(湯釜まで)
| [脚注の使い方] |
カテゴリ:




















































































































































































































































































































































































































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標高:1,967m
新潟県と群馬県の境界稜線上に位置する山で、絶世の美女が山中で機織りをしていたという伝説が残されています。「機織りの神」として地元の人々に信仰されている山です。登頂には井戸尾根コースが人気で、最後の登り手前には池塘群とお花畑が広がっており、登山者の目を楽しませています
























モデルコース
桜坂コース
清水→
桜坂駐車場→五合目(焼松)→六合目(展望台)→前巻機→巻機山避難小屋→巻機山(往復)
難易度
★
体力度
★★
参考タイム
9時間
参考日程
前夜泊日帰り
距離
15.8km
標高差
1373m
累積標高差
+1626m / -1626m
桜坂コース
清水
関越自動車道・塩沢石打IC(223km)
車行く:5人制限
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標高:2,191m
恵那山は長野県と岐阜県に跨る中央アルプス最南端の山です。日本アルプスの名付け親であるウォルター・ウェストンも登り、島崎藤村の「夜明け前」をはじめ様々な作品に登場するなど有名な山となっています。登山道もいくつかありますが、どのコースも楽なコースとまでは言えません。近くには富士見台高原と呼ばれる百名山の23座を見渡せる絶景が広がる山もあります。






























広河原登山口→恵那山神社→恵那山山頂小屋→恵那山
参考タイム
上り:3時間40分 / 下り:2時間20分
距離
4km
標高差
929m
累積標高差
+963m / -41m
登山者用駐車場(04:47)・・・広河原登山口(04:59)・・・1716m地点・・・恵那神社奥宮・・・
分岐(恵那山頂小屋)(06:49)・・・
恵那山休憩 20分・・・分岐(恵那山頂小屋)・・・恵那神社奥宮・・・1716m地点・・・
広河原登山口(08:54)・・・登山者用駐車場(09:14)
恵那山への広河原ルートの登山口。登山口へと続く峰越林道は林道が崩壊して利用できないので、最終ゲートにある駐車場までとなる。
広河原登山口(峰越林道ゲート)までのアクセス情報
マイカーの場合は峰越林道の最終ゲートに駐車。50台程度駐車できる。
タクシー利用の場合はJR飯田線飯田駅からとなる。
登山口へのアクセス
マイカー
その他:飯田ホテル3時40分‐広河原駐車場4時28分 広河原駐車場9時20分‐岐阜羽島IC-岐阜羽島駅12時‐川越自宅16時
飯田ホテル3時40分に出発して広河原駐車場4時28分に到着しました。駐車場には3台程先行者がおられました。
駐車場のトイレはとても綺麗です、地元の皆さんに感謝です。登山口までは林道を20分程度のです。本谷川を木橋で渡り、
急坂が始まります。尾根筋からは緩やかな登山道ですが、笹が登山道を覆い昨日の雨によりズボンはびしょ濡れになりレインウエアーのズボンを履き登ります。
頂上15分前の尾根筋に笹を刈つた広場があり、乗鞍岳、穂高、空木、木曽駒、八ヶ岳、甲斐駒から光岳までの南アルプスが見えました。山頂はからの展望は望めませんが、
中津川市内など名古屋方面がよく見えました。下山は笹と濡れた登山道で2回尻もちを付きました。9時20分に駐車場に戻りましたが、満車になってました。
登山バッチは中津川物産センター(0573 62 2277)で購入しました。JR中津川駅に隣接しています。店頭には陳列されていませんので事前に電話確認下さい。
岐阜羽島駅でレンタカーを返却して新幹線で川越に帰りました。
登山コース案内
2001年10月に開通した広河原登山口からのルートは、恵那山登山ルート中最もコースタイムが短い為人気のあるルートですが、
単調な登りが連続して最後まで楽しめる所が少ないのが難点です。途中、展望が開ける所がありますが、絶景とまでは言い難いといえます。
ゲートまでの峰越林道は狭い箇所があり、慎重な運転が必要です。又しばしば林道が通行止めになるため、事前確認が必要です。
長野県下伊那郡阿智村役場建設農林課建設係 (電話代表 0265-43-2220) 、又は、智村役場のWEBサイドにアクセスして「恵那山登山道広河原ルート」
で検索すれば道路状況の確認が出来ます。
ゲート横には20台ほど停められる駐車場がありますが、一杯の場合に、車道沿いに駐車スペースを見つけるのはいささか困難と思われます。
ゲートを抜け、林道を20分ほど歩くと登山口です。登山口横には水場からは冷たい水がこんこんと流れ出ています。
登山口を入り、本谷川を渡ると登山道が始まります。2003年10月13日に、死亡事故が発生しています。その詳細はこうです。登山者夫婦が下山し、
あと少しで登山口の駐車場に着けるという段階で、本谷川で足止めされます。その日は朝から雨が降り続き、本谷川は増水していました。
当時まだ仮設橋しか出来ていなく、増水のため仮設橋は水没していました。両人は無理して渡ろうとしました。主人は対岸に辿りたのですが、
奥さんは流され死亡するという事故が起こっています。山の天気には十分注意したいものです。
本谷川を渡ると尾根筋に付けられた急勾配の斜面が待っています。ゴロゴロとした石や木の根に覆い尽くされた足場の悪い登山道は、
ジグザグに切られ約1時間30分の急登りが続きます。夏場であれば標高が低いこともあって汗が吹き出します。
標高1,716m地点の小ピークを通過した辺りから傾斜の緩い稜線を進みます。やっと展望が開けると恵那山山頂らしきピークが右手側に見えてきます。
背の高い笹の間を登る辺りが、このコースの最も良い所で、左手には黒井沢登山口からの稜線や右手には神坂峠からの稜線が見て取れます。
針葉樹林帯や笹の間の登りを交互に繰り返へし、高度を上げていきます。5月22日時点で、
山頂近くではまだ雪の残る樹林帯を登り上げると恵那山山頂(標高2,190m)に到着します。
山頂からの展望が無く、さらに10分ほど進んだ所にある最高点(標高2,191m)から、
東側のみの展望が開けています。最高点のある岩場のすぐ下は、
広場となっていて避難小屋とトイレがあります。
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標高:1,700m
火山帯に属し、磐梯朝日国立公園の南端に位置します。荒涼とした火山景観と高山植物が美しく、キジなどの野鳥も多く生息しています。全体的に緩やかで初心者でも比較的登りやすいといえますが、天気が変わりやすく、特に稜線付近は樹木がほとんど無いため、突風や雷には十分注意する必要があります。目の前に磐梯山を眺めながら下山すると温泉が待っていることも嬉しいポイントです。



























































































































薬師岳コース
さんろく
さんろく━さんちょう→みはらし台→表登山口分岐→安達太良山
参考タイム
上り:1時間20分 / 下り:50分
距離
2.1km
標高差
312m
06:46 上野
JR新幹線やまびこ203号・仙台行
20番線発 / 12番線着
6駅
自由席:3,470円
08:20着08:39発 郡山(福島県)
JR東北本線・福島行
5駅
現金:4,430円
09:01
二本松
東北自動車道・二本松IC(279km)
施設名称 二本松IC
所在地 〒964-0871
福島県二本松市成田町1丁目
交通アクセス 「二本松駅」下車 徒歩18分
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標高:2,454m
妙高山は別名、「越後富士」とも呼ばれる越後の名山です。典型的な円形カルデラで、神奈山、大倉山、三田原山等の外輪山が取り巻いている姿は、日本の山の中でも非常に人気の高いものとなっています。頂上部には、巨岩が散乱していますが、コケモモやガンコウランが庭園のような美しさを醸し出しています。7月上旬まで雪渓が残る所もあり、秋の紅葉時は日本三大紅葉とも呼ばれています。













































































縦走 じゅうそう
■法案1、
車で行く
①、木曜日夜出発 12:30
②、金曜日朝出発
上信越自動車道・妙高高原IC
交通案内
車:上信越自動車道妙高高原ICから県道39号を笹ヶ峰方面に15km (約40分)
住所 新潟県妙高市杉野沢 笹ヶ峰
電話番号 0255-86-3911
FAX番号 0255-86-3450
URL http://www.city.myoko.niigata.jp/sightseeingspot/730.html
営業時間 終日開放
備考 無料 冬期閉鎖
コース:
笹ヶ峰→黒沢→富士見平→高谷池ヒュッテ→火打山→高谷池ヒュッテ→
黒沢池ヒュッテ→大倉乗越→妙高山→大倉乗越→黒沢池ヒュッテ→富士見平→黒沢→笹ヶ峰
参考時間:
11日 0840笹ヶ峰登山口 標高1310m
1050富士見平 2070m
1200高谷池フュッテ(1時間休憩) 2110m
1500火打山 2461,7m
1630高谷池フュッテ 2110m
12日 0620高谷池フュッテ 2110m
0930妙高山 北峰(30分休憩) 2445,8m
1000妙高山 南峰 2454m
1200黒沢池ヒュッテ(30分休憩) 2017m
1530笹ヶ峰登山口 1310m
高谷池ヒュッテ】
高谷池のほとりに建つ完全予約制の山小屋。
朝、夕、お弁当付き1泊7000円。
火打山までは危険個所はなかった。
黒沢池ヒュッテ側から妙高山行くのですが、
頂上手前、約2035m地点から400mほど急登します。
ここが苦しいところです。
笹ヶ峰キャンプ場でテント拍できます
妙高IC降りて同キャンプ場までコンビニは見なかった。
買い物は高速PAで済ますほうがいいでしょう
観光協会 0255-86-3911
笹ヶ峰ロッジ 0255-82-3168
高谷池フュッテ0255-86-3131 予約0255-86-3911 現地09064545459
一泊二食7200円
2日
笹ヶ峰登山口(8:20)・・・黒沢(橋)(9:22)・・・富士見平(11:30)・・・
高谷池ヒュッテ(12:30)・・・テント設営後スタート(13:00)・・・天狗の庭(13:23)・・・
ライチョウ平(14:00)・・・火打山(14:40~15:00)・・・高谷池ヒュッテ(16:30)
3日
高谷池テント場(6:20)・・・茶臼山(6:53)・・・黒沢ヒュッテ(7:20)・・・
大倉乗り越し(7:52)・・・長助分岐(8:50)・・・火打山(10:15~10:31)・・・
長助分岐(11:33)・・・大倉乗り越し(12:30)・・・
黒沢ヒュッテ(12:55~13:20)・・・富士見平(14:00)・・・黒沢(橋)(15:24~15:35)・・・
登山口(16:15)
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標高:2,462m
火打山は新潟県糸魚川市と妙高市に跨る頸城三山の最高峰です。火山のような山名ですが、火山ではありません。登山道中には高谷池や天狗の庭といった美しい湿原があり、高山植物も豊富なため人気の山となっています。笹ヶ峰から往復16kmあることや十二曲がりと呼ばれるところでは急登が続くことから、比較的時間もかかります。また、高谷池にはヒュッテがあり宿泊も可能です。


























































縦走 じゅうそう
■法案1、
車で行く
①、木曜日夜出発 12:30
②、金曜日朝出発
上信越自動車道・妙高高原IC
交通案内
車:上信越自動車道妙高高原ICから県道39号を笹ヶ峰方面に15km (約40分)
住所 新潟県妙高市杉野沢 笹ヶ峰
電話番号 0255-86-3911
FAX番号 0255-86-3450
URL http://www.city.myoko.niigata.jp/sightseeingspot/730.html
営業時間 終日開放
備考 無料 冬期閉鎖
コース:
笹ヶ峰→黒沢→富士見平→高谷池ヒュッテ→火打山→高谷池ヒュッテ→
黒沢池ヒュッテ→大倉乗越→妙高山→大倉乗越→黒沢池ヒュッテ→富士見平→黒沢→笹ヶ峰
参考時間:
11日 0840笹ヶ峰登山口 標高1310m
1050富士見平 2070m
1200高谷池フュッテ(1時間休憩) 2110m
1500火打山 2461,7m
1630高谷池フュッテ 2110m
12日 0620高谷池フュッテ 2110m
0930妙高山 北峰(30分休憩) 2445,8m
1000妙高山 南峰 2454m
1200黒沢池ヒュッテ(30分休憩) 2017m
1530笹ヶ峰登山口 1310m
高谷池ヒュッテ】
高谷池のほとりに建つ完全予約制の山小屋。
朝、夕、お弁当付き1泊7000円。
火打山までは危険個所はなかった。
黒沢池ヒュッテ側から妙高山行くのですが、
頂上手前、約2035m地点から400mほど急登します。
ここが苦しいところです。
笹ヶ峰キャンプ場でテント拍できます
妙高IC降りて同キャンプ場までコンビニは見なかった。
買い物は高速PAで済ますほうがいいでしょう
観光協会 0255-86-3911
笹ヶ峰ロッジ 0255-82-3168
高谷池フュッテ0255-86-3131 予約0255-86-3911 現地09064545459
一泊二食7200円
2日
笹ヶ峰登山口(8:20)・・・黒沢(橋)(9:22)・・・富士見平(11:30)・・・
高谷池ヒュッテ(12:30)・・・テント設営後スタート(13:00)・・・天狗の庭(13:23)・・・
ライチョウ平(14:00)・・・火打山(14:40~15:00)・・・高谷池ヒュッテ(16:30)
3日
高谷池テント場(6:20)・・・茶臼山(6:53)・・・黒沢ヒュッテ(7:20)・・・
大倉乗り越し(7:52)・・・長助分岐(8:50)・・・火打山(10:15~10:31)・・・
長助分岐(11:33)・・・大倉乗り越し(12:30)・・・
黒沢ヒュッテ(12:55~13:20)・・・富士見平(14:00)・・・黒沢(橋)(15:24~15:35)・・・
登山口(16:15)
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標高:2,932m
北アルプス後立山連峰北部に位置し、杓子岳、鑓ヶ岳を含む白馬三山の盟主と呼ばれています。日本屈指の高山植物群、日本三大雪渓のひとつ白馬大雪渓、見事な眺望など見どころも満載で、猿倉から白馬大雪渓を通って白馬岳を登るルートが人気です。山中、山麓の随所に温泉があるのも多くの登山者に愛されている理由のひとつです。標高2100mにある鑓温泉は、秘湯の趣にあふれています。
白馬岳(しろうまだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)北部の後立山連峰にある標高2,932 mの山。長野県と富山県とにまたがり、中部山岳国立公園[4]内にある。

南に続く後立山連峰の山々とともに、南北に伸びる稜線の両側の傾斜が著しく異なる非対称山稜が発達している特徴的な山容を持つ[5]。山頂を含む南北700 mの地帯は県境が設定されていない。山頂には一等三角点があり[1]、一等三角点百名山に選定されている[6]。 東側の谷筋には冬季の膨大な積雪と周囲の山塊からの雪崩が集積した日本最大の雪渓である白馬大雪渓がある。雪渓の上部は夏期には日本有数の高山植物のお花畑が広がる。白馬大雪渓は日本三大雪渓のひとつとして有名。[7]日本百名山[8]、新日本百名山[9]、花の百名山[10]及び新・花の百名山[11]に選定されている。 鑓ヶ岳中腹の標高2,100 m地点には、日本有数の高所にある温泉である白馬鑓温泉があり、白馬大池の北麓には蓮華温泉がある。雪渓、お花畑、岩場、山の温泉と様々に楽しめる要素があり、交通の便も比較的良いことから、夏季にはたくさんの登山者が訪れて混雑する。なお、山頂直下に位置する白馬山荘は日本最大の収容人員を誇る山小屋である。夏期の登山者の大半は大雪渓を経由して登るため、夏休みの時期には大雪渓上は長蛇の列となることが多い。しかし、雪渓上は数年ごとに落石事故によって死傷者が出ているので、注意が必要である。

江戸時代の中期頃までは信州側では「西岳」や「西山」と呼ばれ、越中や越後では白馬岳・小蓮華山・白馬乗鞍岳を蓮の花に見えることから「大蓮華岳(山)」と呼ばれていた[16][26]。今でも北に連なり新潟県の最高峰である小蓮華山や蓮華温泉にその名残が見られる。また西側の越中では上駒ヶ嶽と呼んでいた。これに対する下駒ヶ嶽が北に存在している。 「しろうま岳」の名前の由来は春になると雪解けで岩が露出し黒い「代掻き馬」の雪形が現れることから、「代掻き馬」→「代馬」→「しろうま」となったものである。つまり本来の表記は黒い「代馬岳」であったわけである。
1883年(明治16年)に北安曇野郡長と大町小学校長渡辺敏ら登頂の際に、「白馬登山記」の表記を残している[12]。 1915年(大正4年)には陸地測量部による五万分の一の地形図に「代馬岳」ではなく「白馬岳」と記された。地元で「しろうま岳」が早くから「白馬岳」と記述されていたことによる表記の変更であることをうかがわせる。白馬岳の南に位置する杓子岳と鎚ヶ岳を併せた「白馬三山」の呼称もある。[27]
「白馬」は「しろうま」の当て字であるから「はくば」と読むのは本来は誤りだが、地元で「白馬」を「はくば」と読むことは古くから行われており、白馬山荘をはじめとする白馬連峰一帯の山小屋を経営している株式会社白馬館は、1890年に現在の白馬駅前にあたる場所に登山者向けの旅館「山木旅館」を建設し、1916年(大正5年)には「白馬館」と改名した。また、1907年(明治40年)には現在の白馬山荘の位置に山小屋「頂上小屋」を設置し、1915年(大正4年)には「白馬山頂小屋」と改名している。また、1908年(明治41年)には白馬尻小屋を設置しているが、これらは「白馬」を称した当初からすでに「はくば」と読ませており、その他の「白馬」がつく山小屋名もすべて「はくば」と読むのが正式である。
その後も1956年(昭和31年)9月30日に合併で発足した白馬村は「はくばむら」と呼ばれ、1932年(昭和7年)11月20日に開業した大糸線信濃四ツ谷駅は1968年(昭和43年)10月1日に白馬駅と改名され「はくばえき」と呼ばれている。
現在では山や雪渓の名称と高山植物の名称以外のほとんどが「はくば」と読む。すべての「白馬」のつくスキー場もすべて「はくば」が正式の読みとなっており、スキーヤーも「はくば」読みが主流である。地元村民も山の名も含めて「はくば」読みをする人が多いが、登山ガイドブック・登山雑誌に一時期「はくばの読みはおかしい」という主張が掲載された影響か、登山者は「しろうま」派が主流である。また放送局、新聞などのメディアでも「しろうまだけ」と呼ばれている。
最初にこの山で発見された高山植物の和名には、「シロウマ」を冠するものは多数あるが、「ハクバ」を冠するものは全くない[28]。学術的な名称には山の正式名称が採用される傾向にあるからである。ただ、動物ではハクバサンショウウオが存在する。これは白馬岳ではなく白馬村から名付けられたからである。
タカネリンドウ
(シロウマリンドウ)
山域では高山植物の固有種や希少種も多く、高山植物群落の規模も大きいため、日本を代表する高山植物帯・特殊岩石地(蛇紋岩、石灰岩)植物群落として、特別天然記念物「白馬連山高山植物帯」に指定されている。「高山植物の宝庫」と言われ、明治から植物学者による研究が行われ、昭和になって高橋秀男が345種あることを報告した[11]。作家の田中澄江は2度この山に登り、その著書で代表する花としてイワイチョウ、シロウマアサツキ、コマクサ、リンネソウなどを紹介した[10][11]。山の上部は森林限界のハイマツ帯でライチョウの生息地となっている。白馬では、コブシやオオヤマザクラ、ウメ、モモの木の花や、フクジュソウ、キクザキイチゲ、カタクリが競うように、ほとんど同時に花開く。[27]
10種以上のシロウマを冠する種が自生している[28][29][30]。シロウマアカバナ、シロウマイタチシダ、シロウマスゲ、シロウマチドリ、シロウマヒメスゲ、タカネリンドウ(シロウマリンドウ)は、白馬岳の固有種である[30]。 一部の種は長野県、富山県、新潟県レッドリストの準絶滅危惧 絶滅危惧IA類(Critically Endangered, CR)、絶滅危惧IB類(Endangered, EN)、準絶滅危惧(Near Threatened, NT)に指定されている[31]。※ 「シロウマ」を冠する和名の種一覧を表示するには、右の [表示] をクリックしてください[表示]
ウルップソウとミヤマシオガマ
雪解け後順次、以下の非常に多くの高山植物が見られ、白馬大雪渓上部の葱平(ねぶかっぴら)ではシロウマアサツキが多く見られる[32][33]。

白馬岳への最もポピュラーなコースで、入山者も圧倒的に多い。一般的には、猿倉までバスで入ることになる。乗車時間は30分ほどで、シーズンには登山者の数に応じて臨時便を運行するなどの対応をしている。[27]駅前では四本爪アイゼンも借りられる。猿倉では、樹林帯の中に猿倉荘がある。[7]
白馬駅から落倉経由と白馬大池駅経由で樹池高原まで、通年運行のバスがある。今まではここからバスやタクシーで栂池自然園まで入っていたが、自動車の乗り入れは全く禁止され、ゴンドラとロープウェイを乗り継いで行く。夏でも始発7時、下りが終発17時と、頂上へ一日で行くには健脚向きのコースとなった。[27]
2大チェーンによる大規模な山小屋経営が行われている。白馬山荘をはじめとする白馬連峰一帯の山小屋を経営している株式会社白馬館は、1890年(明治23年)に現在の白馬駅前にあたる場所に登山者向けの旅館「山木旅館」を建設し、1916年(大正5年)には「白馬館」と改名した。また、1906年(明治39年)には現在の白馬山荘の位置に山小屋「頂上小屋」を設置し、1915年(大正4年)には「白馬山頂小屋」と改名している。1908年(明治41年)には白馬尻小屋を設置した。この小屋は降雪地帯の白馬大雪渓の下部に位置するため、阿曽原温泉小屋や白馬鑓温泉小屋などと同様に毎年登山シーズン終了時の秋に小屋を解体し、夏季のシーズン前に除雪し再組立てを行っている。
白馬山荘(日本最大の山小屋、収容人数1,200人)、白馬大池山荘、白馬尻小屋、栂池ヒュッテ、白馬鑓温泉小屋、五竜山荘、キレット小屋
白馬岳頂上宿舎(日本で3番目の規模の山小屋・シーズン中は白馬山頂簡易郵便局が設置される)、猿倉荘、天狗山荘、八方池山荘(白馬尻荘は2007年から休業)
祖母谷温泉小屋(黒部峡谷側登山口)、不帰岳避難小屋、雪倉岳避難小屋、朝日小屋、白馬岳蓮華温泉ロッジ、唐松岳頂上山荘
JR東日本大糸線の白馬駅・信濃森上駅・JR東日本白馬大池駅から路線バスで栂池高原、更にロープウェーで栂池までJR西日本大糸線の平岩駅から糸魚川バスの路線バスで蓮華温泉へ
黒部川源流部と白馬岳(右上)
飛騨山脈(北アルプス)主稜線の北部に位置し、後立山連峰の最高峰である。
北アルプスの北部に位置するこの山塊は、雪も深く、夏期に入っても残雪の豊富なのが特徴である。5月の連休の頃には、冬型の気圧配置もなくなり、春山の季節になる。しかし、5月に、遅い雪のため大雪渓で大雪崩の出たことも近年あるので、安心はできない。5~6月は比較的天候は安定することが多いが、梅雨末期の7月中旬は雨の日が多く、雪解け水で沢は増水する。梅雨明けの7月下旬からは晴天に恵まれるが、午後の夕立の季節でもある。 夏とはいえ、稜線では朝晩は冷え込み、防寒着が必要だ。8月中旬を過ぎれば、山は秋の気配も深まる。9月は秋雨前線の冷たい雨が降るようになるが、秋の高気圧に覆われた時は、爽やかな秋晴れに紅葉の美しい季節だ。10月になれば、稜線は初雪に薄化粧され、体育の日前後でだいたい小屋も閉じる。一般の登山者も、この頃までで、山は急速に厳しい冬山に変わる。[27]

白馬岳、杓子岳、鑓ヶ岳を併せて「白馬三山」という。
※ 白馬岳からの眺望を表示するには、右の [表示] をクリックしてください[表示]





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標高:2,144m
皇海山は栃木県、群馬県にまたがる足尾山塊のほぼ中央部に位置します。東西に長い頂稜を持ちますが、北側は国境平付近まで標高差にして500m以上も切れ落ちており、庚申山付近から望む姿は颯爽として見事です。登山道は栃木県側、群馬県側からの2つあります。秋の紅葉が見事なことでも有名です。































































2017/05/07
■1、AM7:00 上野駅中央改札集合
AM7:15レンタルカーで 皇海橋へ行く
※関越自動車道・沼田IC(198km)
■2、皇海橋 AM10:30登山開始
登山コース
皇海橋→二俣→不動沢のコル→皇海山(往復)
難易度 ★★
体力度 ★
参考タイム 5時間
参考日程 日帰り
距離 6km
標高差 790m
参考タイム
上り:2時間50分 / 下り:2時間10分
■3、PM1:30山頂到着
■4、PM1:45下山
16:00 皇海橋到着
■5、温泉(あれば)と東京に戻す。
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標高:2,354m
四阿山は長野・群馬県境にあり、根子岳と寄り添うようにそびえて独特の景観を形作っています。ゆったりと裾野を広げた様子が屋根の棟に見えることから「あずまや」の名があり、吾妻山とも書きます。コース中は特に難所はなく、浅間山や草津白根山、北アルプスを望む雄大な展望と季節の花を楽しみながら歩くことができます。秋にはカラマツの黄葉も見事です。














































































































2017/05/07
■1、AM8:00 上田駅 集合
AM8:15Bus –>菅平高原ダボス(AM9:10)
※菅平高原ダボス=菅平高原
■2、菅平高原 AM9:30登山開始
登山コース
菅平高原→菅平高原管理事務所→中四阿→四阿山
参考タイム 上り:3時間10分 / 下り:2時間20分
距離: 8.2km
標高差 :1034m
■3、12:50山頂到着
■4、13:00下山
15:30 菅平高原到着
■5、
上田駅 菅平高原ダボス 菅平高原ダボス 上田駅
7:05 8:00 6:35 7:30
8:15 9:10 8:25 9:20
10:30 11:25 9:45 10:40
13:20 14:15 12:55 13:50
15:00 15:55 15:05 16:00
16:30 17:25 16:35 17:30
18:00 18:55 18:35 19:30
19:45 20:40
※菅平高原ダボス=菅平高原
※停留所多数のため割愛
上田駅⇔菅平高原
路線バス:上田バス
※2017/04/01~2017/06/30運行(2016/04/01改正)
上田駅→菅平高原ダボス 菅平高原ダボス→上田駅
赤字…日曜日、祝日運休
(C)日本百名山登山支援 全頂制覇百名山

















































































































































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標高:2,017m
東京、埼玉、山梨の都県境が頂上で交わる雲取山は、東京都にとっての最高峰です。東京都の水源をなす山のひとつでもあります。登山道は、奥多摩側(多摩川流域)からのコースと、秩父側(荒川流域)からのコースに大別され、様々なコースから日程に合わせて選べることも人気のひとつです。頂上からは奥秩父の山々や富士山を望むことができます。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動
| 雲取山 | |
|---|---|
| 南東の七ツ石山から望んだ雲取山 | |
| 標高 | 2,017.13[1] m |
| 所在地 | 日本 東京都西多摩郡奥多摩町 埼玉県秩父市 山梨県北都留郡丹波山村 |
| 位置 | 東経138度56分38秒座標: |
| 山系 | 秩父山地 |
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| プロジェクト 山 | |
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雲取山と周辺地形図山頂を南東から三峯神社から見た霧藻ヶ峰、白岩山、雲取山

雲取山(くもとりやま・くもとりさん[2])は、東京都・埼玉県・山梨県の境界にある標高2,017.13m[1]の山。
秩父多摩甲斐国立公園の代表的な山の一つで、日本百名山に選ばれている。1都2県にまたがるとともに、東京都の最高峰・最西端の山でもある。山頂には一等三角点が設置されている。見晴らしが良く、周辺の山々のほか富士山、南アルプス、関東平野方面なども見ることができる。妙法が岳、白岩山とともに三峰山の三山の一つである。
1901年(明治34年)、東京府東京市(現在の東京都)は、水源地保全のため、多摩川を囲む山地4万8千ha余りを山梨県から購入した[3]。
大正末から昭和6年(1931年)にかけて、ススキの原だった雲取山周辺の稜線に、落葉松の苗木を植林した[3]。
現在は東京都側と山梨県側の山林が、東京都水道局の水源林(東京都水源林)となっている。
山梨県・東京都側(多摩川流域)と埼玉県側(荒川流域)に大別される。山梨県丹波山村の鴨沢、埼玉県秩父市の三峯神社からのコースをはじめ、様々なコースで登ることができる。

| 山小屋 | 名称 | 所在地 | 収容 人数 | キャンプ 指定地 | 水場 | 営業 | 備考 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 雲取山荘 | 山頂北側直下 | 200人 | テント50張 | あり | 通年 | [15] | ||
| 三条の湯 | 後山林道終点付近 | 80人 | テント15張 | あり | 迎車あり[6] | [16] | ||
| 雲取山避難小屋 | 山頂 | 約20人 | なし | なし | 避難小屋交通困難地に指定されている | |||
| 七ツ石小屋 | 七ツ石山 | 15人 | テント10張 | あり | 自炊 | [17] | ||
| 霧藻ヶ峰休憩所 | 霧藻ヶ峰 | 10人 | なし | なし | 土日 | 自炊 |
かつては山頂南側に奥多摩小屋もあったが、平成31年3月31日をもって閉鎖された[18]。


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標高:3,026m
乗鞍岳は、3000m級の山々が連なる中で、23の峰、7つの湖、8の平原があり、壮大な自然を堪能できます。また、山頂の近くまで観光バスで登ることができ、高山の世界を比較的簡単に体験することができます。最高峰は剣ヶ峰で、多くの山上湖、豊富な高山植物や森林、高原など、複合火山ゆえの多彩な景観を抱く連峰です。乗鞍岳からは、槍ヶ岳、穂高連峰など、まさに雲上の世界が眺められます。高山植物の宝庫でもあり、初夏には、白、黄、ピンクなど色とりどりの花を楽しむことができます。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動
| この項目では、長野県と岐阜県の境にある、北アルプス南部の乗鞍岳について説明しています。その他の乗鞍岳については「乗鞍岳 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
| 乗鞍岳 | |
|---|---|
| 信州側の奈川渡ダム上空から望む | |
| 標高 | 3,025.73[1] m |
| 所在地 | 日本長野県 松本市岐阜県 高山市 |
| 位置 | |
| 山系 | 飛騨山脈 |
| 種類 | 複合火山[2](活火山ランクC[3]) 噴火警戒レベル1(活火山であることに留意)[4]・常時観測火山 |
| 初登頂 | 1683年(円空上人) |
| OpenStreetMap[表示] | |
| プロジェクト 山 | |
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乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの8峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など23の峰があり、高山市奥飛騨温泉郷、高山市丹生川町、高山市朝日町、高山市高根町、長野県松本市安曇にまたがる広大な裾野をもつ。飛騨側の高山市街地などから大きな山容を望むことができ、親しまれてきた山である[5][6]。剣ヶ峰は、本州を太平洋側と日本海側に分ける分水界上の最高峰でもある。
山体は岐阜県と長野県に跨がる活火山で日本で19番目に高い山[7]。活火山ランクC[3]気象庁による常時観測対象の47火山に含まれる[8]が山頂部に噴気地帯は存在しない[9]。比較的新しい火山であることから穏やかな山容が特徴で、最新の噴火は2000年前の恵比寿岳での噴火とされている。乗鞍岳を含む飛騨山脈の主な山域は1934年(昭和9年)12月4日に中部山岳国立公園の指定を受け[注釈 1][10]。長野県側の麓には溶岩流で形成された乗鞍高原が広がる。1949年に岐阜県道の観光道路で標高2,702 mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった[11]。長野県側からも畳平まで乗鞍エコーラインが開通し山麓にはスキー場が建設され周辺には温泉地があり、四季を通じて美しい景観に恵まれ、乗鞍岳の山域は観光地、保養地として発展している[11]。日本百名山[12]、新日本百名山[13]、信州百名山[14]、ぎふ百山[15]、一等三角点百名山[16]に選定されている。

873年(貞観15年)の日本三代実録で、飛騨の国司の言葉大野郡愛宝山に三度紫雲がたなびくの見たとの瑞兆を朝廷に言上した— 『日本三代実録』(873年)
が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた[17][18]。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている[注釈 2][17][18]。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた[11]。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた[12][19]。日本には同じ飛騨山脈に属する白馬連峰の乗鞍岳をはじめとして同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している[20]。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた[注釈 3][17][21]。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」[注釈 4][21]。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている[21]。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった[22]。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある[5]。

日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである[注釈 5][23]。乗鞍岳は複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている[9][23][24]。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる[24]。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された[19]。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された[25]。
山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 km2と裾野が広いのが特徴で[23]、飛騨山脈の中では最も広い山域を持つ[19]。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。梓川、神通川、飛騨川の源流となる山で、それらの分水嶺となっている[17]。山頂付近の積雪が多く、乗鞍スカイラインの開通のために長期間の除雪が必要となる。夏でも一部の北東斜面などには雪渓が残り、夏山でのスキーが可能となっている。西山腹の千町火山体の溶岩台地上の千町ヶ原から奥千町にかけては、池塘が点在する高層湿原となっている[26]。
古期乗鞍火山
新期乗鞍火山

有史以降
100年活動指数と1万年活動指数がともに低い火山であることから、「活火山ランクC」の指定を受けている[3]。2009年(平成21年)6月に火山噴火予知連絡会により、山体浅い部に地震活動が認められていることから、過去100年以内に火山活動の高まりが認められている火山として、火山防災のために監視・観測体制等の必要がある火山の一つの指定を受けている[31]。火山性の地震群発は現在でも観測されている[32]。活火山としての活動力を失っていて山頂部に噴気地帯はないが、湯川(梓川の支流)の最上流部では火山ガスが発生している[20]。周辺では気象庁、国土地理院、防災科学技術研究所、名古屋大学により地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラが設置され火山活動の監視と観測が行われている[33]。気象庁は2007年(平成19年)12月1日に噴火予報で「平常」を発表しており、「噴火警戒レベル対象外火山」であり、2013年7月度の気象庁火山部火山監視・情報センターの月例報告で、「火山活動に特段の変化はなく、静穏に経過し噴火の兆候は認められない」と発表している[32]。しかし、1000年以上噴火しておらず、そろそろ噴火をしても良い時期と考える火山学者もいる[34]。2014年の木曽御嶽山噴火災害をうけて、ハザードマップが作成されていない状態の解消を目指し、乗鞍防災協議会設置のための火山対策検討会議が行われた[35]。
飛騨側の位山から望む乗鞍岳の主な峰々山頂部には権現池を火口湖とするカルデラがあり、水分岳、朝日岳、蚕玉岳(こだまだけ)、雪山岳、剣ヶ峰(最高峰、標高3,026 m)、大日岳、薬師岳、屏風岳の8峰から構成される(権現池・高天ヶ原火山体)。


山頂部には北から順番に以下の峰が連なり、乗鞍23峰と呼ばれている。その他の峰として、高天ヶ原(たかまがはら、2,829 m)と金山岩(かなやまいわ、2,532 m)がある。最高峰の剣ヶ峰には一等三角点が設置されている[1]。多くの峰は登山規制が行われていて、立ち入りが禁止されている[36]。
| 山名 | よみ | 標高 (m) [1][37] | 剣ヶ峰からの 方角と距離(km) | 火山体名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 安房山 | あぼうさん | 2,220 | 北北東 10.1 | 安房トンネル | |
| 十石山 | じゅっこくやま | 2,525 | 北北東 7.2 | ||
| 大崩山 | おおくえやま | 2,523 | 北 5.7 | ||
| 猫岳 | ねこだけ | 2,581 | 北 5.2 | ||
| 硫黄岳 | いおうだけ | 2,554 | 北北東 4.8 | ||
| 四ツ岳 | よつだけ | 2,751 | 北 4.5 | 四ッ岳火山体 | |
| 烏帽子岳 | えぼしだけ | 2,692 | 北 3.9 | 烏帽子火山体 | |
| 大丹生岳 | おおにゅうだけ | 2,698 | 北 3.7 | ||
| 大黒岳 | だいこくだけ | 2,772 | 北北東 2.4 | ||
| 恵比寿岳 | えびすだけ | 2,831 | 北 2.3 | 恵比寿火山体 | 遊歩道 |
| 魔王岳 | まおうだけ | 2,760 | 北 2.2 | 遊歩道 | |
| 富士見岳 | ふじみだけ | 2,817 | 北 1.7 | 登山道 | |
| 里見岳 | さとみだけ | 2,824 | 北北西 1.9 | ||
| 不動岳 | ふどうだけ | 2,875 | 北 1.5 | ||
| 摩利支天岳 | まりしてんだけ | 2,872 | 北 1.2 | 乗鞍コロナ観測所 | |
| 水分岳 | みくまりだけ | 2,896 | 北西 0.6 | 権現池・ 高天ヶ原 火山体 | |
| 朝日岳 | あさひだけ | 2,975 | 北北西 0.4 | ||
| 蚕玉岳 | こだまだけ | 2,979 | 北北西 0.2 | 登山道 | |
| 雪山岳 | せつざんだけ | 2,891 | 西 0.7 | ||
| 剣ヶ峰 | けんがみね | 3,026 | 0 | 乗鞍岳の最高峰 | |
| 大日岳 | だいにち | 3,014 | 南南西 0.3 | ||
| 薬師岳 | やくしだけ | 2,950 | 西南西 0.7 | ||
| 屏風岳 | びょうぶだけ | 2,968 | 南西 0.6 |



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山頂付近には、以下の8箇所に12個の火口湖と堰止湖がある[37][5]。
古生層の安山岩類や花崗岩類、デイサイト質の溶岩などで構成されている[17][20]。乗鞍岳ではパン皮状火山弾(breadcrust bomb)が見られ、火口付近では吹き飛ばされた古い岩石の破片、スコリア、軽石なども見られる[40]。山頂付近には亀甲砂礫や条線砂礫などの構造土が見られ[17]、地理学者の田中阿歌麿が日本の周氷河地形として初めて亀ヶ池で構造土を発見した[20]。乗鞍高原の鈴蘭には武田信玄によって開発されたとされる大樋鉱山があって、1640年(寛永17年)から1697年(元禄10年)にかけて盛んに銀が産出されていた[17][28]。東山腹の梓川の支流湯川沿いの白骨温泉では石灰華(炭酸カルシウム)の沈殿物が見られ、「白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石」が1952年(昭和27年)3月29日に国の特別天然記念物の指定を受けた[41]。
マイカー規制が行われている乗鞍スカイラインと乗鞍エコーライン乗鞍コロナ観測所で観測された月ごとの平均気温(1971-2000年)
自然保護の観点から乗鞍スカイラインと乗鞍エコーラインで2003年からマイカー規制が実施され、バスとタクシーを除き一般車両の通行が禁止されるようになった。これらの山岳道路では麓の山地帯、亜高山帯、高山帯へと植生の垂直分布の移行を観察することができる[39]。東側の乗鞍高原の山麓では明治時代に牛の放牧とソバ畑の開拓が行われた[28]。

山頂付近の摩利支天岳(標高2,872 m)頂上の乗鞍コロナ観測所で観測された、毎日の平均気温、最低気温、最高気温の月ごとの1971年(昭和46年)から2000年(平成12年)までの30年間の平均値を下表に示す[42]。1月下旬から2月上旬にかけてが最も寒く、8月初旬が最も暑い[42]。畳平へのシャトルバスの夏の早朝便ではカーエアコンで暖房される。
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平均気温(℃) | -15 | -15 | -11 | -5 | 1 | 6 | 9 | 11 | 7 | 0 | -6 | -12 | -3 |
| 最低気温(℃) | -17 | -17 | -14 | -8 | -2 | 1 | 6 | 8 | 4 | -2 | -8 | -14 | -5 |
| 最高気温(℃) | -13 | -12 | -8 | -1 | 4 | 9 | 12 | 14 | 9 | 3 | -4 | -10 | 0 |
また、年間平均気温、および最低気温、最高気温の年間平均値を下表に示す[42]。年間の平均気温の最低値は1986年の-4.1℃、最高値は1998年の-0.5℃。
| 年 | 平均 気温 (℃) | 最低 気温 (℃) | 最高 気温 (℃) | 年 | 平均 気温 (℃) | 最低 気温 (℃) | 最高 気温 (℃) | 年 | 平均 気温 (℃) | 最低 気温 (℃) | 最高 気温 (℃) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1968年 | -0.8 | -4.7 | 3.2 | 1979年 | -1.9 | -4.8 | 1.0 | 1990年 | -1.6 | -3.9 | 1.2 |
| 1969年 | -2.2 | -5.5 | 2.3 | 1980年 | -3.0 | -5.5 | -0.5 | 1991年 | -2.1 | -4.5 | 0.4 |
| 1970年 | -1.4 | -4.5 | 1.8 | 1981年 | -2.6 | -5.0 | -0.2 | 1992年 | -2.4 | -4.8 | 0.1 |
| 1971年 | -2.8 | -6.1 | 0.5 | 1982年 | -2.4 | -5.1 | 0.5 | 1993年 | -3.0 | -5.0 | -0.7 |
| 1972年 | -2.2 | -5.7 | 1.3 | 1983年 | -2.8 | -5.1 | -0.4 | 1994年 | -2.3 | 0.2 | |
| 1973年 | -2.0 | -5.5 | 1.5 | 1984年 | -3.3 | -5.5 | -1.0 | 1995年 | -3.7 | -5.9 | -1.5 |
| 1974年 | -2.5 | -5.7 | 0.7 | 1985年 | -2.7 | -4.9 | -0.6 | 1996年 | -2.6 | -5.2 | -0.1 |
| 1975年 | -2.2 | -5.5 | 1.3 | 1986年 | -4.1 | -6.6 | -1.6 | 1997年 | -2.3 | -4.7 | 0.1 |
| 1976年 | -3.2 | -6.3 | -0.1 | 1987年 | -2.0 | -4.6 | 0.6 | 1998年 | -0.5 | -3.4 | 2.3 |
| 1977年 | -2.1 | -5.2 | 1.0 | 1988年 | -3.5 | -5.7 | -1.1 | 1999年 | -2.4 | -5.1 | 0.3 |
| 1978年 | -2.3 | -5.3 | 0.8 | 1989年 | -2.3 | -4.7 | 0.3 | 2000年 | -2.6 | -5.3 | -0.7 |
9時と15時における風力の月ごとの1989年(平成元年)から1997年(平成9年)までの9年間の平均値を下表に示す[43]。風向きは年間を通じて北西が主流となっている[42]。冬期に風が強い日が多く、9時、15時の区別なく1-2月には風力4.9-5.2(風速換算で約10 m/s)[42]。
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 9時 | 5.0 | 5.1 | 4.6 | 3.8 | 3.1 | 2.9 | 2.7 | 2.5 | 2.7 | 2.9 | 3.8 | 4.6 | 3.6 |
| 15時 | 5.2 | 4.9 | 4.4 | 3.6 | 2.8 | 2.7 | 2.6 | 2.4 | 2.6 | 2.8 | 3.7 | 4.5 | 3.5 |
乗鞍エコーラインの畳平付近(標高約2,700 m)の除雪部の雪壁(2013年5月21日)
9時と15時における月別天気出現率(%)(1968-1997年の平均値)を下表に示す[43]。乗鞍岳では夏に午後になると霧や雲の発生が活発になることが多く、他の山岳地帯と同様に午前中の方が天候が安定している[42]。畳平では濃霧で視界不良となることもある[44]。例年9月末-10月にかけて山頂部で初冠雪し、6月にも雪が降ることがある[43]。
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 快晴 | 21 | 20 | 25 | 26 | 22 | 11 | 11 | 19 | 18 | 32 | 32 | 28 |
| 晴 | 5 | 7 | 9 | 11 | 13 | 15 | 17 | 18 | 13 | 11 | 7 | 7 |
| 曇 | 9 | 14 | 18 | 22 | 27 | 30 | 20 | 17 | 23 | 18 | 13 | 9 |
| 雨 | 0 | 0 | 1 | 6 | 12 | 19 | 21 | 15 | 9 | 9 | 4 | 0 |
| 雪 | 42 | 36 | 26 | 13 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 19 | 36 |
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 快晴 | 15 | 13 | 14 | 14 | 9 | 2 | 2 | 2 | 5 | 18 | 24 | 24 |
| 晴 | 7 | 7 | 10 | 14 | 14 | 10 | 11 | 14 | 12 | 13 | 8 | 8 |
| 曇 | 13 | 16 | 20 | 28 | 35 | 33 | 25 | 29 | 30 | 23 | 17 | 9 |
| 雨 | 0 | 0 | 1 | 6 | 12 | 21 | 25 | 18 | 21 | 9 | 4 | 0 |
| 雪 | 50 | 43 | 33 | 17 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 21 | 38 |
山域にはオコジョ、トウホクノウサギ、ニホンカモシカ、ツキノワグマ[注釈 10][45]、イワヒバリ、ホシガラス、国の特別天然記念物に指定されているライチョウなど生息する[20]。
ツキノワグマについては2009年に、畳平でバスターミナル周辺を襲う事件があり、9人の観光客がクマの攻撃を受ける騒動となった事例がある。詳細は「乗鞍岳クマ襲撃事故」を参照
ライチョウに関しては、長野大学生態学研究室により詳細な生息調査が行われている[46]。ライチョウの乗鞍岳における総個体数は1983年の調査では130羽、1994年の調査では109羽と減少傾向にある(環境省のレッドリストの絶滅危惧IB類の指定を受けている種)[47]。イワツバメ、イワヒバリ、カヤクグリ、ライチョウ、ルリビタキの繁殖が確認されていて[47]、カラ類、キセキレイ、ホシガラスなど多くの野鳥が生息している[20]。
白樺峠は、乗鞍高原一帯を通過していくタカの渡りの観察地として知られていて、9月下旬にはサシバ、ハチクマ、10月中旬にはノスリ、ツミなどの渡りが見られる[48]。乗鞍高原では7種のコウモリの生息が確認されていて、日本の固有種であるクビワコウモリの繁殖が日本で初めて乗鞍高原で確認された[49]。長野県の天然記念物の指定種の高山蝶のクモマベニヒカゲとミヤマモンキチョウやクジャクチョウ、コヒオドシなどの蝶が生息し[47]、岐阜県のレッドリストで指定を受けている高山蛾のアルプスカバナミシャク、アルプスギンウワバ、アルプスヤガ、アルプスクロヨトウ、オオギンスジコウモリ、クモマウスグロヤガ、サザナミナミシャク、タカネモンヤガ、ナカトビヤガ、ヤツガダケヤガなどの確認記録がある[50]。
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志村烏嶺が乗鞍岳で高山植物の採集と研究を行っている。位ヶ原と桔梗ヶ原では大規模なハイマツの群生地となっている[20]。コイワカガミ、キバナシャクナゲ、ミヤマキンバイ、クロユリ、コマクサ、イワギキョウ、ヨツバシオガマなどの植物が見られ、高山ならではの自然を堪能する事ができる。富士見岳、魔王岳などの風衝地にはコマクサの群落が広がっている。大黒岳は山全体にコマクサが分布していたが、人の増加に伴い踏み荒らされ大幅に減少した[51]。雪解けとともに開花が始まり、秋にはコケモモ、ダケカンバ、チングルマ、ナナカマドなどの紅葉が見られる。江戸時代大樋鉱山で銀を抽出する際に薪や炭を作るために乗鞍高原周辺の原生林のシラビソやブナが切り尽くされた[28]。その結果乗鞍高原鈴蘭付近は、シラカバなどの二次林とスズラン、ヤナギランなどの草原となりっており、ミズバショウなどの高原植物も分布している[20]。乗鞍高原には湿原があり、「乗鞍岳湿原」として日本の重要湿地500の一つに選定されている[52]。子ノ原高原はレンゲツツジの名所として知られていて[53]、「子ノ原高原レンゲツツジ群落」が1969年(昭和44年)8月5日に高山市の天然記念物の指定を受けている[54]。西面中腹の千町ヶ原の湿原には、キソチドリ、コバイケイソウ、モウセンゴケなどが分布する[55]。東面中腹の位ヶ原では、9月下旬-10月上旬ごろにナナカマドとダケカンバが紅葉する[56]。乗鞍岳では山麓から山上部にかけて以下の植物の垂直分布が見られる[57]。山岳道路開通に伴い帰化植物が侵入し、飛騨山脈原産のオオハンゴンソウが乗鞍スカイラインの旧料金所の上部の亜高山帯で、セイヨウタンポポが畳平の駐車場で、ムラサキツメクサが鶴ヶ池付近で確認されている[58]。乗鞍スカイライン沿いでは針葉樹の立ち枯れが確認されている[47][59]。
畳平の乗鞍自然観察教育林のお花畑に整備された木道
乗鞍岳の高山帯と大部分の山域は国有林であり、林野庁中部森林管理局飛騨森林管理署内にある[60]。畳平周辺の多くの高山植物が分布するハイマツ帯は、林野庁によりレクリエーションの森の「乗鞍自然観察教育林」の指定を受けている[60]。畳平には飛騨森林管理署詰所があり、その南側のお花畑には観察用の木道が整備されている。

乗鞍地域の環境保全を目的として2002年(平成14年)10月9日に岐阜県議会で「岐阜県乗鞍環境保全税条例」が可決され、2003年(平成15年)5月15日のマイカー規制開始時から乗鞍スカイラインに乗り入れる自動車に対して課税と徴収が行われるようになった[61]。税収は環境影響評価調査や環境パトロール員の配置などの乗鞍環境保全施策に使われている[61]。課税標準は以下である[62]。

古くは「位山」と呼ばれ、山麓から遥拝されていた[11][63]。飛騨側では大丹生池付近、信州側では乗鞍高原山麓の梓水神社付近に遥拝所があったとみられている[63]。修験者が登頂するようになると、山頂の飛騨側に乗鞍大権現、信州側に朝日権現神社が祀られ、霊山としての修行の場であった[63]。同じ飛騨地方にある白山や御嶽山と比較すると宗教的な意味合いが薄い山であった[19]。
飛騨側にはいくつもの信仰の道が作られ、麓には乗鞍神社が建立され、乗鞍信仰が盛んであった[63]。円空上人と木喰上人が修行のために登ったと伝えられている[11][19]。
信州側では奈良時代と室町時代には水神の霊山として、江戸時代にかけては戦の神としての信仰の山であった[63]。東面標高2,100 mの冷泉小屋脇には、乗鞍修験者の行場であった霊泉の湧水がある[64]。1600年代後半頃には大樋銀山の鎮守神として信仰された[63]。冷泉小屋上部の大雪渓下には、江戸時代に乗鞍岳を開山した宝徳霊神の碑がある[18]。18世紀末には山頂の朝日権現神社でご来光を拝んだものにはご利益があるとれ、ご来光詣でが盛んに行われるようになった[63]。

古くから高山市高根町野麦からの野麦口が猟師やコマクサ採りの人々により利用されていた[70]。近代登山の黎明期には地元のガイドとともに、ウィリアム・ゴーランド、アーネスト・サトウ、ウォルター・ウェストンらが登頂した[70]。富山藩の漢学者小杉復堂が平湯から、植物学者の河野齢蔵と矢澤米三郎が信州側から登頂している[70]。陸地測量部の舘潔彦らが測量登山のために1894年(明治27年)に野麦口から登頂している[70]。本格的な登山道と山小屋が開設されたのは明治末期から大正中期以降であった[70]。乗鞍スカイラインの開通などにより、標高2,702 mの畳平までバスや自動車で上がれるようになってからは、登山対象の山というよりも「観光客の山」という意味合いが強くなった[20]。夏に麓の中学校などの行事として、学校登山が行われている。例年乗鞍スカイラインが開通する5月15日に、畳平で乗鞍岳山開き祭が行われている。山開き直後には登山道には多くの残雪がありクラストしていることもあり、アイゼン、ピッケル、ストックなどの雪山装備が必要となる[39]。
山頂直下北には頂上小屋(売店のみ)があり、山頂には一等三角点と北側に朝日権現社、南側に乗鞍本宮奥宮(鞍ヶ嶺神社)の2つの神社がある[73]。岩場の山頂は見晴らしが良く360度の展望がある。畳平と肩の小屋に西側に公衆トイレが設置されている。畳平付近にある魔王岳、大黒岳、富士見岳には遊歩道が整備されている[36][74]。富士見岳からは木曽山脈越し(仙丈ヶ岳と北岳との間)に、富士山の山頂部の南側の最高点である剣ヶ峰をわずかに望むことができる。
山頂の剣ヶ峰(標高3,026 m)北側からの展望、左遠景は御嶽山

各方面から登山道が開設されている[75]。大多数の観光客やハイカーは、畳平から周辺や山頂を散策している。一部登山道は閉鎖や通行禁止状態になり、安房口、白骨口、野麦口は廃道になりつつある[18]。畳平からのコース登山道の一部は未舗装の道路で、蚕玉岳から剣ヶ峰までの最後の登りは岩混じりの急登となる[39]。家族連れ、老若男女を問わず大勢の人で賑わい、シーズン最盛期には山頂へ向かう登山道が渋滞することもある。(行程):畳平 – (富士見岳[注釈 14]) – 肩の小屋 – 蚕玉岳 – (頂上小屋[注釈 15]) – 剣ヶ峰乗鞍高原からのコース(番所口)冷泉小屋の脇には湧水がある。戦後の登山ブーム時には乗鞍高原からのコースが利用され、雪山登山者には上部の冷泉小屋と位ヶ原山荘が前進基地として利用された[70]。(行程):乗鞍高原 – 三本滝分岐 – 冷泉小屋 – 位ヶ原山荘 – 位ヶ原 – 肩の小屋口 – 肩の小屋 – 蚕玉岳 – (頂上小屋) – 剣ヶ峰[73]丸尾尾根日陰平口コース神通川水系小八賀川と飛騨川との分水嶺の丸黒尾根[76][77]と千町尾根のコース[73][26]。千町ヶ原にはオオシラビソの森の中に湿原がある。大正時代に行者が利用した信仰の道で、コース上には百体以上の石仏が設置されている[78]。丸黒山は穂高岳などの見晴らし良い広い山頂で小さな祠がある[26]。池塘が点在する千町ヶ原では1994年(平成6年)木道が整備された[53][55]。コース上に水場はない[26]。国立乗鞍青年の家からは、日陰平山(1,595 m)とかぶと山(1,545 m)を周回するハイキングコースが整備されている[79]。(行程):国立乗鞍青年の家 – 日陰峠 – 枯松平山(1,694 m) – 枯松平避難小屋 – 丸黒山(1,956 m) – 千町ヶ原 – 奥千町避難小屋 – 中洞権現 – 剣ヶ峰平湯口コース(行程):国道158号の平湯大滝入口 – アンバ山 – 猿飛八丁 – 姫ヶ原(湿原) – 乗鞍スカイライン – 畳平 – (富士見岳) – 肩の小屋 – 蚕玉岳 – (頂上小屋) – 剣ヶ峰[17][注釈 16][73]白骨口コース(行程):白骨温泉 – 遊歩道 – 東尾根 – 十石小屋 – 十石山 – 硫黄岳 – 乗鞍スカイライン – 畳平 – (富士見岳) – 肩の小屋 – 蚕玉岳 – (頂上小屋) – 剣ヶ峰[17][73]青屋口コース1896年(明治29年)から3年かけて青屋村(現在の高山市朝日町)の上牧太郎之助が開拓したコースで[26][80]、廃道となっていたが地元有志により再整備された[73]。(行程):青屋口 千町ヶ原 – 奥千町避難小屋 – 中洞権現 – 剣ヶ峰[17]子ノ原口コース(行程):南乗鞍キャンプ場 – 林道 – 尾根 – 奥千町避難小屋 – 中洞権現 – 剣ヶ峰[17][81][注釈 17][73]阿多野口コース(行程):アイミックスキャンプ場 – 林道 – 尾根 – 中洞権現 – 剣ヶ峰[17]野麦口コース(行程):高根町野麦 – 焼石原 – 高天ヶ原 – 剣ヶ峰[注釈 18][73]
1920年に建造された奥左端の山頂と摩利支天岳との鞍部にある山小屋(左側:肩の小屋)、右側は東京大学宇宙線研究所乗鞍観測所

1919年(大正8年)に南安曇郡安曇村により乗鞍岳で最初に登山者用の山小屋の建設が進められていたが、完成間近に突風で倒壊した[70]。翌年麓の安曇野村議会議員の筒期音弥により、現在の肩の小屋の位置に間口6間、奥行3間の小さな山小屋が建てられた[70]。当時は「乗鞍小屋」や「筒木小屋」と呼ばれていて、この山小屋の開設により次第に登山者が増加していった[70]。1926年(大正15年)番所大滝付近の麓に鈴蘭小屋が建てられスキー客の宿として利用され、1929年(昭和4年)に現在の位置に移設して通年営業の山小屋として開業した[70]。その後山頂周辺に岐阜県山岳会の小屋など4軒の山小屋が建てられ、大衆登山の山となった[70]。鈴蘭小屋の少し上部に1927年(昭和2年)に冷泉小屋が建てられた。乗鞍岳の東面は溶岩流のなだらかな斜面でスキーに適した地形で全国の注目を集めた。これらの山小屋により乗鞍高原からの登山ルートが築かれていった。肩の小屋は1961年(昭和36年)に増築され収容能力を増し、登山者の増加に対応した[70]。登山者用の山小屋が山頂周辺などにある[82]。山頂直下北には1931年(昭和6年)に建てられた売店営業のみの頂上小屋がある。山頂直下の摩利支天岳との鞍部には肩ノ小屋がある。畳平には、一般観光客向けの旅館タイプの宿泊施設である乗鞍山頂銀嶺荘と、乗鞍白雲荘(畳平駐車場に隣接しており、個室もあり一般観光客の利用も多いが、相部屋中心で、付近の残雪が少なくなると入浴ができなくなるなど、設備的には山小屋である。)がある。乗鞍高原からコースの乗鞍エコーライン沿いの位ヶ原には、山スキーなどに利用される位ヶ原山荘がある。南山麓の野麦峠には野麦峠お助け小屋がある。東山麓の乗鞍高原には乗鞍高原温泉ユースホステルの宿泊施設がある。千町尾根の登山道には1999年(平成11年)に建てられた奥千町避難小屋[55]、丸尾尾根には枯松平避難小屋、猫岳の北西には猫の小屋、十石山頂上直下には十石小屋の避難小屋がある。
| 画像 | 名称 | 所在地 | 標高 (m) | 剣ヶ峰からの 方角と距離(km) [注釈 19] | 収容 人数 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 乗鞍白雲荘 | 畳平と鶴ヶ池北西 | 2,704 | 北 2.1 | 60 | 2013年に改築 | |
| 位ヶ原山荘 | 位ヶ原 乗鞍エコーライン沿い | 2,350 | 北東 2.1 | 50 | 1940年建造 山スキーなどに利用される | |
| 頂上小屋 | 山頂直下北 | 2,800 | 北 0.1 | 1931年建造 山頂に最も近いが、売店のみ | ||
![]() | 肩ノ小屋 | 山頂直下北 大雪渓上部 | 2,800 | 北 0.9 | 200 | 1920年建造 山頂に最寄りの宿泊可能な山小屋 |
| 野麦峠お助け小屋 | 野麦峠 | 1,672 | 南東 7.2 | 50 | 1841年建造 郡代が設置。昭和に復元 |
飛騨山脈南部の主稜線にあり、主峰の剣ヶ峰から北に硫黄岳、十石岳を経て十石尾根が安房峠まで延び焼岳につながる、南に高天ヶ原と戸鞍を経て県界尾根が野麦峠まで延び、鎌ヶ峰につながる[23]。
飛騨山脈南端の山で、野麦峠付近までが中部山岳国立公園の指定範囲である[10]。赤石山脈上空から望む乗鞍岳と周辺の山、手前に木曽山脈、遠景が左から御嶽山と中央の乗鞍岳から北へ延びる飛騨山脈
| 山容 | 山名 | 標高[1][83] (m) | 三角点等級 基準点名[1] | 乗鞍岳からの 方角と距離(km) | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
![]() | 白山 | 2,702.17 | 一等 「白山」 | 西 70.6 | 両白山地の最高峰 日本百名山 |
![]() | 穂高岳 | 3,190 | 北北東 22.0 | 飛騨山脈の最高峰 日本百名山 | |
| 焼岳 | 2,455.37 | 二等 「焼岳」 | 北北東 13.7 | 日本百名山 | |
![]() | 乗鞍岳 | 3,025.73 | 一等 「乗鞍岳」 | 0 | 日本百名山 |
| 鎌ヶ峰 | 2,121.10 | 二等 「鎌ケ岳」 | 南南東 9.8 | ||
| 鉢盛山 | 2,446.43 | 一等 「鉢盛山」 | 東 18.2 | 日本三百名山 | |
| 御嶽山 | 3,067 | (一等)「御嶽山」 (3,063.41 m) | 南南西 24.6 | 独立峰 日本百名山 | |
| 木曽駒ヶ岳 | 2,955.95 | 一等 「信駒ケ岳」 | 南東 41.8 | 木曽山脈の最高峰 日本百名山 |
本州における太平洋側(木曽川)と日本海側(信濃川、神通川)の中央分水嶺が剣ヶ峰を通っており、この分水嶺の最高所となっている。
畳平まで乗鞍スカイライン(岐阜県側)や乗鞍エコーライン(長野県側)といった自動車道が通じていることもあり、「日本で最も登りやすい3,000m超級の山[23]、「ハイヒールでも上れる山」とも称されてきた。しかし自家用車で畳平の駐車場まで乗り入れのできた以前とは異なり、マイカー規制により麓にある専用駐車場などからシャトルバス又はタクシーの利用が必要となった。高山市は、江名子町より望む乗鞍岳、夕焼けの乗鞍岳、朝の乗鞍岳、桔梗ヶ原より望む乗鞍烏帽子岳、布引滝(五色ヶ原)、五色ヶ原の森雄池、十二ヶ岳付近より望む乗鞍岳、舟山山頂道路より望む乗鞍岳、日和田高原から望むレンゲつつじと乗鞍岳、野麦峠より望む乗鞍岳、野麦峠の池より望む乗鞍岳を「新高山市100景」の一つとして選定している[6]。乗鞍スカイライン終点の畳平(標高2,702 m、岐阜県高山市丹生川町)、駐車場、宿泊施設、山小屋、郵便局、神社などがある。
畳平(たたみだいら、岐阜県高山市丹生川町)は乗鞍岳山頂部にある恵比寿火山体の火口原[85]。標高は白山と同じ2,702 mで、日本最高所の路線バスのバス停がある。乗鞍スカイラインの終点であり、観光バスやタクシーが駐停車する駐車場がある。高山植物のお花畑には木道の遊歩道が整備され観光スポットとなっている。高山植物の見頃は6月下旬-8月中旬ごろ[86]。乗鞍自然観察指導員による自然観察教室が開催されている。周辺には山小屋などの宿泊施設と宇宙線研究所などの観測施設があり、乗鞍岳星空観察会が行われている。また売店、食堂、自然観察指導所、乗鞍山頂簡易郵便局[87]、乗鞍本宮神社がある。乗鞍スカイライン開通後しばらくの間、鶴ヶ池周辺では立山黒部アルペンルートの雪の大谷のような雪の回廊が見られる。駐車場の500 mほど東の乗鞍エコーラインの峠部(長野県と岐阜県との県境)、大黒岳、富士見岳などがご来光スポットとなっている[88]。畳平へのペットの持ち込みは禁止されている[89]。
乗鞍岳の東麓に広がる標高1,200-1,800 mの溶岩流の岩原で、三本滝、牛留池、湿原など景観に恵まれた環境である。4月上旬-5月上旬にはミズバショウが開花し、5月に入るとシラカバやカラマツが芽吹き始める[90]。牛留池や一ノ瀬園地などからは乗鞍岳を望むことができる[91]。古くは修験者の登路となり、江戸時代には大樋銀山で銀の産出が行われていた[92]。一ノ瀬園地ではソバの栽培が盛んに行われている。Mt.乗鞍(旧称の乗鞍高原温泉スキー場と旧乗鞍高原いがやスキー場のMt.乗鞍スノースマイルエリア)のスキー場がある。鈴蘭には長野県乗鞍自然保護センターがある。湯川から源泉を引湯している乗鞍高原温泉(のりくら温泉)がある。乗鞍高原温泉、すずらん温泉、安曇乗鞍温泉、わさび沢温泉の総称として、のりくら温泉郷と呼ばれている。詳細は「乗鞍高原」を参照
乗鞍スカイラインが2003年にマイカー規制される以前の有料道路であった時期には、自転車の通行が禁止されていた。マイカー規制後は自転車の通行が許可された。畳平付近の乗鞍エコーラインの標高2,716 m地点(大黒岳と富士見岳との鞍部、長野県と岐阜県との県境)は、日本で自転車で走行できる最も標高の高い県道の地点である。毎年夏に、乗鞍スカイライン・サイクルヒルクライムと全日本マウンテンサイクリングin乗鞍の自転車レースが開催されている。
毎年7月の第1日曜日に開催される乗鞍スカイラインをメインコースとした自転車ヒルクライムレース。岐阜県高山市丹生川町久手の殿下平交流ターミナル(標高1,360m)を起点として、平湯峠を経由して畳平の鶴ヶ池駐車場(標高2,702 m)を終点とする全長18.8 km(標高差1,642 m)のコース。乗鞍スカイラインがマイカー規制された翌年の2004年から始まり、2013年のエントリー数は1,011名であった。詳細は「乗鞍スカイライン・サイクルヒルクライム」を参照全日本マウンテンサイクリングin乗鞍のゴール地点の様子
毎年8月の最終日曜に開催される自転車ヒルクライムレース。乗鞍エコーラインの鈴蘭から長野・岐阜県境までの区間、全長約20.5km、標高差1,260m(スタート地点1,458m, ゴール地点2,716m)(大会主催者側の公称値)のコースをひたすら登り続ける。1986年(昭和61年)から実施されており2014年大会で実に29回目を数える、日本のヒルクライムレースの草分け的存在である[93]。最近の自転車人気の復活も手伝ってか近年の参加者数は3,000名を大きく超える規模となっている。詳細は「全日本マウンテンサイクリングin乗鞍」を参照東山腹の乗鞍高原にあるスキー場のMt.乗鞍
国内では月山、立山とともに夏スキーができる山として知られている。冬に積雪が多く夏でも山頂付近の各所に雪渓が残り、剣ヶ峰の北東面の大雪渓と魔王岳北東面の鶴ヶ池雪渓がスキー指定地とされ夏スキーやスノーボードで賑わっている[20]。環境保護の意識が低かった1960年代には、某大学のスキー部が雪面を固めるためトラックで4トン近くの塩を運びこび散布。大雪渓周辺の高山植物が極端に衰退する出来事もあった[94]。
山麓には以下のスキー場がある。1934年(昭和9年)1月に開業したリフトなどがない「飛騨乗鞍スキー場」が飛騨側の大尾根にあった[95]。1997年(平成9年)に岐阜県大野郡丹生川村の村営スキー場として開業した「ひだ乗鞍ペンタピアスノーワールド」は、2007年1月に廃止となった。南西山麓の子ノ原高原には1972年(昭和47年)に開業した「子ノ原高原スキー場」があった[96]。
乗鞍岳の西麓の3,000 haほどのブナとミズナラなどの広葉樹とコメツガとシラビソなどの針葉樹の森林地帯で、溶岩台地周辺の地形に池、湿原、滝などが点在する[97]。588種の植物が確認され[97]、多くの環境省のレッドリスト指定種が含まれている[98]。多くの自然が残されていて、一般の入山が規制され[注釈 20]完全予約制でインタープリター[注釈 21]による周辺の遊歩道でガイドが行われている[99]。2004年(平成16年)7月に整備された周辺の滝巡りをするカモシカコースと池や湿地などを巡るシラビソコースがある[72][99][100]。「高山市乗鞍山麓五色ヶ原の森」が、2013年(平成25年)3月21日に「第8回エコツーリズム大賞」の優秀賞を受賞した[101]。詳細は「五色ヶ原 (乗鞍岳)」を参照白骨温泉の共同露天風呂
東麓では1929年(昭和4年)に大野川まで自動車道が通り、1940年(昭和15年)には幅員4.5 mの車道が乗鞍高原鈴蘭まで開通した[70]。山域の北端を国道158号が通り、その安房峠の下部を1997年(平成9年)に開通した安房峠道路のトンネルが貫通している。国道158号の高山市側から平湯峠を経由して山上部の畳平まで岐阜県道5号乗鞍公園線が通じており、上部の区間は「乗鞍スカイライン」と呼ばれている。国道158号の平湯温泉側からは、平湯峠まで岐阜県道485号平湯久手線が通じている。山頂の北2 kmの畳平(標高2,702 m)には、日本で最高所の乗鞍バスターミナルがある。長野県の乗鞍高原側からは、長野県道84号乗鞍岳線が畳平まで通じ、その県道の上部の区間が「乗鞍エコーライン」と呼ばれている。1973年(昭和48年)に上高地方面から白骨温泉、乗鞍高原、白樺峠を経由して奈川温泉までの上高地乗鞍スーパー林道の有料道路が開通し、2008年(平成20年)に無料開放された。山域の南端の野麦峠を長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通る。乗鞍スカイラインを畳平から平湯峠方面に走行する濃飛バスのシャトルバス、遠景は飛騨山脈の山並み
1973年(昭和48年)に岐阜県初の有料道路として開通した乗鞍スカイラインは一般車両が通行できる日本最高所の有料道路であり、終点は収容台数230台の畳平駐車場と210台の鶴ヶ池駐車場があった[39]。乗鞍スカイラインと乗鞍エコーラインから畳平まで乗り入れる車両は年間20万台を越えていた[102]。2003年から乗鞍スカイラインの平湯峠ゲートより上部及び乗鞍エコーラインの三本滝ゲートより上部でマイカー規制が実施されている[89]。岐阜県側では、濃飛バスによりアカンダナ駐車場(平湯温泉)と朴の木平駐車場から畳平行きの専用シャトルバスが運行されている(例年除雪後に冬期閉鎖が解除され、5月15日に開通する。)。長野県側では、アルピコ交通の松本電鉄バスにより乗鞍高原内の第1駐車場、第2駐車場、第3駐車場、三本滝駐車場から畳平行きのシャトルバスが運行されている(例年除雪後に冬期閉鎖が解除され、7月初旬に畳平までの全区間が開通する。)。7-9月の夏期シーズンにはご来光時に合わせた早朝便が運行されている。
麓の乗鞍高原からはその山容を望むことができ[103]、高山市街からは大きな山容を見渡すことができ、高山市などの山麓の多くの学校の校歌で歌われている[104]。






西の白山から望む乗鞍岳(左)と御嶽山(右)
比較的新しい火山であることからなだらかな女性的な山容で[21][23]、御嶽山と同様に遠くから眺めると独立峰のように大きくその裾野を広げている。明治の歌人の長塚節がうるはしみ 見し乗鞍は 遠くして 一目といえど ながくほこらむ— 長塚節
の短歌を残している[12]。深田久弥は「日本百名山」の著書で、「乗鞍の姿を一度見たらその山を忘れることができないだろう。」と記している[12]。麓の高山市の歌人福田夕咲はみ仏の 思惟の姿に 似たらずや 静けきかもよ 岳の夕ばえ— 福田夕咲
の短歌を残し、乗鞍岳の山容を仏の仰臥に見立てている[17]。また飛騨の山の特徴を「乗鞍の雄大、槍ヶ岳の険峻、御嶽の壮厳、錫杖の奇観、白山の崇高」と表現している[105]。松本市などの学校でも校歌に歌われている。乗鞍岳を背景としてゲンゲとギフチョウを描いたふるさと切手(50円郵便切手)の『国土緑化・岐阜県』が、2006年(平成18年)5月19日に、郵便局から発売された[106][107]。







NHKなどにより、乗鞍岳を主題とした以下のテレビ番組などが放送されている。
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標高:1,567m
首都圏から一番近い百名山である丹沢は、アクセスが良く四季を通じて大勢の登山者で賑わっています。南麓の大倉から塔ノ岳に登る大倉尾根は通称「バカ尾根」と呼ばれています。バカみたいにひたすら木と石の階段の急登を登って頂上が見えたときの感動はひとしおです。丹沢山中に多く生息するシカも疲れを癒してくれることでしょう。
丹沢山(たんざわさん・たんざわやま)は丹沢山地の丹沢主脈にある標高1,567mの山。 神奈川県相模原市緑区と愛甲郡清川村、足柄上郡山北町の境界に位置し、周辺の山々と共に丹沢大山国定公園に指定されている。
元々、丹沢山とは丹沢中央部に連なる山々の総称であったが、明治時代の測量時に当山に一等三角点が設置され、その仮称として丹沢山と名付けられたのがそのまま現在へと至り、一峰の山名となっている。しかし、深田久弥が日本百名山に選んだ丹沢山とはこの山塊中の一峰ではなく、丹沢中央部に連なる山々の総称であるとされている。
山頂に山小屋「みやま山荘」がある。通年営業。建物は2004年に建て替えられた。宿泊料金は、素泊まり5,500円、朝食500円、夕食1,000円[1]。定員30〜40名。水場はない。みやま山荘
太字は登山口

丹沢主脈(北西)
丹沢主脈(南)
丹沢三峰
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標高:3,776m
日本の最高峰であるとともに、日本三名山・日本百名山・日本の地質百選にも選定されています。登山シーズンは7~8月と言われ、その時期以外は上級登山者限定の危険な山です。登山道は整備されていますが、十分な装備をして登る必要があります。登山道からの富士山は、遠方から見上げる富士とは異なる姿と言われており、毎年約20万人以上が山頂を目指すと言われています。
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| この山の世界遺産については「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」を、その他の用法については「富士山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
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| 富士山 | |
|---|---|
| 南西の富士市より(富士山がある風景100選選定地) | |
| 標高 | 3,776.12m(剣が峰の最高地点の標高) なお、二等三角点「富士山」の標高は、3775.51mである(2014年4月1日標高改算)[1][2] m |
| 所在地 | 日本静岡県 富士宮市裾野市富士市御殿場市駿東郡小山町山梨県 富士吉田市南都留郡鳴沢村 |
| 位置 | |
| 山系 | 独立峰 |
| 種類 | 成層火山・活火山ランクB[3]・常時観測火山 |
| 初登頂 | 663年(役小角) |
| OpenStreetMap[表示] | |
| プロジェクト 山 | |
| テンプレートを表示 |
| 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (日本) | |
|---|---|
| 河口湖からの富士山 | |
| 英名 | Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration |
| 仏名 | Fujisan, lieu sacre et source d’inspiration artistique |
| 面積 | 20,702 ha (緩衝地域 49,628 ha) |
| 登録区分 | 文化遺産 |
| 登録基準 | (3), (6) |
| 登録年 | 2013年 |
| 公式サイト | 世界遺産センター(英語) |
| 地図 | |
| 使用方法・表示 |
富士山(ふじさん、英語: Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である[注釈 1]。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)[注釈 2]の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会的に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山[4]、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている[注釈 3]。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された[6]。
2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初[7]の閉鎖となった[8]。
| この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 出典検索?: “富士山” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年6月) |
国際宇宙ステーションから見た春の富士山
富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山[注釈 4]と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある[注釈 5]。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある[注釈 6]。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説[10]、原ポリネシア語説がある。
明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり[11]、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。
富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山麓では静岡県に富士市や富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市や富士河口湖町、富士川町がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富士街道」を参照
全国各地には、別称を含めて少なくとも321座を超える数の、「富士」と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照
地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照
また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。詳細は「芙蓉」および「富嶽 (曖昧さ回避)」を参照
富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることから古くからその高さが注目されてきた。
以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である[12]。
明治初期までに測量された富士山の高さ
| 時代 | 測定年 | 測定者 | 測定法または器械 | 結果(m) | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 江戸時代 | 1727 | 福田 某 | 三角法 | 3 895.1 | |
| 1803 | 伊能忠敬 | 三角法 | 3 927.7 | ||
| 1826 | シーボルト | セキスタント | 3 793 | セキスタント:六分儀 | |
| 1834 | 内田恭 | 象限儀、占気筒 | 3 475.7 | ||
| 1860 | オルコック | 気圧計 | 4 322 | ※測定法は<鈴木、1998>による | |
| 1860 | ファガン | 3 987 | |||
| 1860 | ウィリアム | 気圧計 | 3 266 | ※測定法は<鈴木、1998>による | |
| 1860 | ルビェー | 3 518 | |||
| 1860 | クニッピング | 気圧計 | 3 729 | ||
| 明治時代 | 1874 | スチュワート | オムニメートル | 3 769 | |
| 1874 | フェントン | 3 772 | |||
| 1874 | ファーブルブラントン | 3 768 | |||
| 1880 | 中村精男、和田雄次 | 気圧計 | 3 823 | メンデンホール・田中館愛橘らの富士山頂重力測定と同時に実施 | |
| 1880 | 野尻武助 | 上記の再計算 | 3 812 | 温度の補正が異なる | |
| 1880 | チャップリン | 三角測量 | 3 787.2 | ||
| 1880 | ライン | 3 745.5 | |||
| 1880 | シュット | 3 766.4 | |||
| 1880 | ミルン | 3 882.3 | |||
| 1887 | 参謀本部 | 三角測量および平板測量 | 3 778 |
箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。
※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月
標高として言及されるものには、次の2つがある。
山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに三角点が設置されて、その標高が精度良く(センチメートル単位で)計測されているからである。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない[13]。
富士山では、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の高さが3775.51 mである。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63mであった[14]。
三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、国土地理院は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している[15]。最高標高の地点は岩体の高さなど必ずしも三角点の標高とは限らないため、山岳標高の表示は1メートル単位となっている。この国土地理院の「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。
富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山の最高標高である[16][注釈 7][17][18]。
地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。
この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた[19]。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2kmのところにあったと考えられている。
2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている[20]。
プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである[21][22]。富士山の火山上の特徴は、側火山が非常に多いこと[23]、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し[23]、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること[23]がある。富士山頂山頂火口を上空より

富士山の眺め。その1、飛行機の窓から見た富士山。その2、ズームイン。その3、新幹線の窓から見た富士山。山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むように位置する8つの峰を八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m 2014年4月1日改算[2])、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m 2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある[24]。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している[25]。国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された[26][27]。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照
詳細は「富士山の噴火史」を参照
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500–2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で[28]、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。
延暦19年 – 延暦21年(800年 – 802年)に延暦噴火(『日本後紀』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し[29]、2016年には修正加筆が終了した[28]。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。
地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている[30]。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴
政府系機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)や自治体(山梨県富士山科学研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。
山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく[44]、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された-38.0℃で、最高気温が-30℃未満の日も過去に数回観測されている。-30℃を上回ることがない1日というのは北海道でも例がない[45]。
| [隠す]富士山の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録 °C (°F) | −1.7 (28.9) | 0.0 (32) | 1.0 (33.8) | 4.7 (40.5) | 12.2 (54) | 12.3 (54.1) | 17.4 (63.3) | 17.8 (64) | 16.3 (61.3) | 10.4 (50.7) | 6.9 (44.4) | 3.6 (38.5) | 17.8 (64) |
| 平均最高気温 °C (°F) | −15.4 (4.3) | −14.7 (5.5) | −10.9 (12.4) | −5.7 (21.7) | −0.8 (30.6) | 3.6 (38.5) | 7.5 (45.5) | 9.3 (48.7) | 6.1 (43) | −0.1 (31.8) | −6.4 (20.5) | −12.2 (10) | −3.4 (25.9) |
| 日平均気温 °C (°F) | −18.4 (−1.1) | −17.8 (0) | −14.2 (6.4) | −8.7 (16.3) | −3.4 (25.9) | 1.1 (34) | 4.9 (40.8) | 6.2 (43.2) | 3.2 (37.8) | −2.8 (27) | −9.2 (15.4) | −15.1 (4.8) | −6.2 (20.8) |
| 平均最低気温 °C (°F) | −21.7 (−7.1) | −21.5 (−6.7) | −17.8 (0) | −12.1 (10.2) | −6.5 (20.3) | −1.6 (29.1) | 2.4 (36.3) | 3.6 (38.5) | 0.4 (32.7) | −5.8 (21.6) | −12.2 (10) | −18.3 (−0.9) | −9.3 (15.3) |
| 最低気温記録 °C (°F) | −37.3 (−35.1) | −38 (−36) | −33.9 (−29) | −27.8 (−18) | −18.9 (−2) | −13.1 (8.4) | −6.9 (19.6) | −4.3 (24.3) | −10.8 (12.6) | −19.5 (−3.1) | −28.1 (−18.6) | −33 (−27) | −38 (−36) |
| 出典: 気象庁[46][47] 平均気温 (1981年 – 2010年) 最高・最低気温記録 (1932年7月 – 2013年) |




「富士登山#気候」も参照
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細は「富士山測候所」を参照
富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。
富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある[51]。

また、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされている[51]。
富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとしてペットボトル詰めされ、販売されている。
富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。
その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している[52]。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。

三合目付近の森
(北西斜面、標高1800m)

五合目付近のカラマツ林
(北西斜面 奥庭、標高2200m)

八合目付近のオンタデ
(東斜面、標高3200m)

山頂部(標高3700m)の砂礫地帯
植生はほとんど見られない
古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。詳細は「富士信仰」を参照
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。
それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。
登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。
神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[53]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 – 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[53]。
富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。
慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[54]。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[53]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。
富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である[55]。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された[56]。
富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。
| 和暦 | 西暦 | 内容 | 補足 |
|---|---|---|---|
| 推古天皇6年 | 598年 | 平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。 | 諸国から献上された数百頭の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 |
| 天智天皇2年 | 663年 | 役小角が、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 | 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 |
| 貞観17年 | 875年 | 平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。 | 山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。 |
| 久安5年 | 1149年 | 『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰り返したとある。 | 回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 |
| 江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 | 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。 | ||
| 文政11年 | 1828年 | 気圧計による高度測定の試み | シーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m – 3732m[57]とされていたが、この測定では3794.5mと算出されている[58]。 |
| 天保3年 | 1832年 | 高山たつが女性として初登頂。 | 女人禁制が敷かれていた時代である。 |
| 嘉永6年 | 1852年 | 松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂。 | 富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した『袖日記』という古記録に、宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。『袖日記』の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道したりすることは許されない。このため富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1852年)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。 |
| 万延元年 | 1860年 | 英国公使オールコックが外国人として初登頂。 | 『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本[注釈 8]が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した[54]。 |
| 明治4年 | 1872年 | 女人禁制が解かれる。 | 明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。 |
| 明治25年 | 1892年 | 英国人のウォルター・ウェストンが登頂。 | 翌年にも登頂した。その後、本を出版して富士山などの日本の山々を世界に紹介した[59]。 |
| 明治28年 | 1895年 | 野中到が冬季初登頂。 | 2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った[60]。 |
| 大正12年 | 1923年 | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山 | 7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された[61]。 |
| 大正12年 | 1923年 | 秩父宮雍仁親王の登山 | 8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 |
| 昭和2年 | 1927年 | 中村テルが冬季女性初登頂 | 1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に[60]。 |
| 昭和63年 | 1988年 | 浩宮徳仁親王(当時・現今上天皇)の登山。 | 8月1日–2日の登山で、須走口から八合目を往復した[62]。天候の悪化で登頂は断念される。 |
| 平成20年 | 2008年 | 皇太子徳仁親王が登頂。 | 8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂[63]。 |

山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭[注釈 9]を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭[注釈 10]は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという[64]。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」[注釈 11]と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている[65]。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている[66]。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている[53]。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった[67]。
新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」[注釈 12]と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある[68]。
元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏[注釈 13]らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された[69]。
安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論[注釈 14]が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済[注釈 15]も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された[注釈 16]。
この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。

富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された[70]。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された[71][72]。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている[73]。
| ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。 |
富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。詳細は「富士山がある風景100選」を参照
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。
富士山を見ることができる最遠地は和歌山県那智勝浦町にある色川富士見峠(妙法山とは別)で、富士山頂からの距離は322.9キロ[74][75][76][77]。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離にある)[78]。南東方向に約271km離れた八丈島の三原山からも眺望される[76]。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都府から2014年に撮影に成功した[79]ことにより、20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)[80]。
富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。
| 画像 | 富士山の姿 | 解説 |
|---|---|---|
| 赤富士 | 夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。 葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。 | |
| 紅富士 | 雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。 「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。 | |
| 逆さ富士 | 波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。 D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。 | |
| ダイヤモンド富士 | 太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、 富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現象。 富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる[81]。 | |
| 影富士 | 朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。 富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。 | |
| 笠雲 | 笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。 その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。 |

現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが[82]、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…— 『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』[注釈 17]『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。
活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、自然科学と人文科学の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、生態系といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では静岡県富士山世界遺産センター(富士宮市)や富士学会といった専門の研究機関・団体もある。
地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5-10%程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、ドローンの上昇限界が2750m程度という制約がある[83]。

絹本着色富士曼荼羅図 狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載
富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗 銘不二山(国宝)

鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた[注釈 18]。
室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝雪舟作『富士三保清見寺図』(永青文庫所蔵)は、三保の松原と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市日本平からの眺望とされている[85]。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、狩野派を中心に数多くの作品が派生している。凱風快晴、葛飾北斎作
江戸時代には、1767年(明和4年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。葛飾北斎は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(1831-34年・天保2-5年頃)、及び、絵本『富嶽百景』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている[86]。
また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている[87]。50銭政府紙幣(1938年発行)
岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。

富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。
富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ[88]。— 8月15日付
その後も富士山は大日本帝国により日本国および聖俗両面の統治者である天皇を中心とした日本独自の政治体制である国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争)で日本と戦ったアメリカ合衆国にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。
深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。
日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山

近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。

富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。
『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している[91]。
ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している[92]。
中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』[93]をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。
高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない[94]。
富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題[95]、世界遺産登録問題[96]等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。
富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である[97]。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている[98]。 とくに積雪期・残雪期の登山は極めて危険である[98]。詳細は「富士登山」を参照
その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。
2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。
静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。
静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。
静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい[99][100]。
「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。
富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[101][102]。
2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[103]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。
1945年7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた[104]。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日記』を通じて残されている。
また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている[105]。
| 記号 | Unicode | JIS X 0213 | 文字参照 | 名称 |
|---|---|---|---|---|
| 🗻 | U+1F5FB | - | 🗻🗻 | MOUNT FUJI |









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標高:1,915m
大峰山は奈良県中央にある山で、百名山としては近畿最高峰の八経ヶ岳のことを指しますが、修験道の山である山上ヶ岳も大峰山とされています。この一帯や熊野参拝道の1つである大峰奥駈道は世界遺産にも登録されています。天女の花と呼ばれる国の天然記念物であるオオヤマレンゲが自生していることもあって、これを目的として登る人も多いです。登山道は整備されていますが、何度か急な所もあり楽な山とは言えません。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動
| この項目では、奈良県の山について説明しています。その他の用法については「大峰山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
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地理院地図 Googleマップ大峰山(山上ヶ岳)
北緯34度15分8.56秒
東経135度56分27.36秒座標:
北緯34度15分8.56秒 東経135度56分27.36秒登山道の一風景
大峰山(おおみねさん)は、奈良県の南部にある山。現在では広義には大峰山脈を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を指す。歴史的には「大峰山」は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。対して小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という。
歴史的に使われてきた呼称及び修験道の信仰では、青根ヶ峰より南を「大峯」、以北を吉野としてきた[1]。
この一帯は1936年(昭和11年)に吉野熊野国立公園に指定され、1980年(昭和55年)にはユネスコの生物圏保護区(ユネスコエコパーク)に登録(登録名:大台ケ原・大峯山・大杉谷)[2]、さらに2004年(平成16年)7月、ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の文化的景観を示す主要な構成要素として、史跡「大峯山寺」「大峯奥駈道」ほかが登録された。女性の入山を禁止する女人禁制を採っている。
吉野から熊野に至る大峯奥駈道は、古来の自然信仰と渾然一体となった中国渡来の神仙思想や道教、仏教の修行のために、藤原京や平城京からこの地を訪れた僧侶(修験者)によって切り開かれたことに始まり、飛鳥時代の終わり頃の文部天皇の時期に役小角によって開山された[3]。熊野修験が勢力を伸ばす中で長久年間(1040年 – 1044年)に修験者(義叡、長円)により熊野から吉野までの大峯奥駈道が体系付けられた。山伏が大峯で修行することを「峯(みね)入り」「入峯(にゅうぶ)」と言い、熊野から吉野へ抜けることを「順峯」、吉野から熊野まで詣でることを「逆峯」と呼んでいる。室町時代以降、京都などに近い吉野から入山する逆峯が多くなった[4]。大峯山と書く場合の「峯」は、「山久しくして平らかなり。」という意味を示している。
深田久弥の随筆『日本百名山』やそれを元にした各種一覧表では、大峰山 (1,915 m) とあるが、これは広義でいう大峰山の最高峰「八経ヶ岳」(八剣山)の標高である。『日本百名山』において深田久弥は山麓の吉野郡天川村洞川(どろがわ)から山上ヶ岳に登った。宿坊で泊まり翌朝山頂に立つとそこから南へと大峰山脈縦走路(大峯奥駈道)に入り大普賢岳、行者還岳を経て夕方に弥山(みせん)の山小屋に着き、翌朝に近畿の最高地点である八経ヶ岳の山頂に登った。縦走路はさらに南へ続くが大峰山最高峰到達に満足し山を下ったとされる。
大峰山の麓、天川村には日本三大弁財天の一つ(異説もあるが)で古い歴史を持つ天河大弁財天社があり、弥山の山頂にはその奥宮がある。
1984年(昭和59年)8月、大峰山寺の解体修理に伴う外陣回りの発掘調査で、山岳宗教史上の大発見として黄金仏2体が検出された。
山上ヶ岳岩壁山上ヶ岳 鐘掛岩の頂上大峯山寺妙覚門(金峯山四門)大峯山寺本堂稲村ヶ岳
奈良県吉野郡天川村に位置する。標高1,719 mで日本三百名山。
この一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であった。道場としての大峯山は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している。その中でも山上ヶ岳(旧名:金峯山)の頂上付近には修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂があり、山全体を聖域として現在でも女人禁制が維持されている。山上ヶ岳へ通じる登山道には、宗教上の理由により女人禁制である旨を伝える大きな門があり(女人結界門
北緯34度16分04秒東経135度54分50秒)、1300年の伝統を守るための協力を依頼した看板が設置されている(これに反対する動きについては女人禁制を参照)。しかし、1929年(昭和4年)には既に女性が登山していたとされ、一部では入れるようになったともいわれる[5]。
1007年(寛弘4年)8月、藤原道長が大峯山の山頂である山上ヶ岳に、自筆の妙法蓮華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、弥勒上生下成仏経、般若心経など併せて十五巻を銅の筺に納めて埋経した。これに倣った貴族の大峯登拝と埋経が盛んになった。また、道長は1011年(寛弘8年)に御嶽精進をはじめるが、触穢(しょくえ)によって大峯山詣を中止した。道長の埋経は出土しており、大峯参詣の記録を含む日記『御堂関白記』も伝わっている。ちなみに藤原頼通、藤原師通も登山しており、師通は、日記『後二条師通記』に登拝の記録を残している。
山上ヶ岳の麓には門前町として洞川温泉の集落があり、参拝者のための旅館が立ち並んでいる。洞川から大峯大橋までは道路(奈良県道21号大峯山公園線)が整備されて、すぐそばの女人結界門から山頂まで参道が設けられているが、鎖場を登る長く険しい山道が続く。
詳細は「稲村ヶ岳」を参照
奈良県吉野郡天川村に位置する。標高1,726 m.
大日山と稲村ヶ岳の2峰がある。山上辻に稲村ヶ岳の山小屋がある。亜高山植物に富む。
山上ヶ岳では女人禁制が維持されているが、その隣に位置する稲村ヶ岳では、女性信者のための修行の場として1960年(昭和35年)より開放されており、「女人大峯」とも呼ばれる。
詳細は「八経ヶ岳」を参照
奈良県吉野郡天川村と上北山村の境界に位置する。標高1,915 m.
八経ヶ岳(八剣山、または仏経ヶ岳)は近畿地方の最高峰で、トウヒやシラベの原生林に覆われている。また初夏にはシャクナゲやシロヤシオが咲き、7月初旬には国の天然記念物オオヤマレンゲが咲く花の山となる。
弥山山頂直下にある。1990年に皇太子徳仁親王が宿泊の際に新装された。定員200名。
稲村ヶ岳と山上ヶ岳の分岐点の山上辻にある。シーズン中の土日のみの営業。定員30名。
大峯山寺を管理する5寺院の宿坊が山頂直下にある。本来は信者のための宿泊施設であるが、誰でも利用可能。ただし、女人禁制の区域にあるため、宿泊は男性だけとなる。各150 – 200名ほど宿泊可。詳細は大峯山寺の項を参照。
「小仲坊」がある。大峯奥駈道の終点宿泊所としてや、釈迦ヶ岳の登山基地として利用される。
水場が遠い小屋や、トイレがない小屋も多い。新しい小屋もあれば老朽化した小屋もあり、また、秋は水場が涸れたり冬期は閉鎖されたりする小屋もある。水場までの所要時間は下りの時間であるので、帰りは登りとなり1.5倍ほど時間がかかることが多い。南奥駈
南奥駈の3避難小屋は新宮山彦ぐるーぷの管理で、1人1泊2,000円を小屋内の納付箱に納めることになっている。
釈迦ヶ岳の南の行仙岳の南側。時期によっては管理人がいることがあるが素泊まりのみ。トイレ、自炊場、薪ストーブ等あり。水は徒歩12分ほど下った所の水場を使う。30名ほど宿泊可。ソーラーパネル蓄電による室内LED照明を敷設し、携帯電話充電器も設置。
1991年に改築。転法輪岳の北。近くにトイレあり。水は徒歩5分ほど下った所の水場を使うが、夏場は枯れやすい。10名ほど宿泊可。
涅槃岳の南。2015年に改装された。トイレは小屋の床下部にある。林道が脇を通っており自動車で到達できる。板間にカーペット敷で30名ほど宿泊可。時期によっては管理人がいることがある。水は林道を徒歩5分ほど歩いた所の水場を使う。北奥駈
釈迦ヶ岳の南。8名ほど宿泊可。2016年に改修。水場(香精水と呼ばれる)は小屋から200メートルほどの所にある。トイレなし。ソーラーパネル蓄電による室内LED照明を敷設し、携帯電話充電器も設置。
弥山と釈迦ヶ岳の間にある。2階建てのログハウス風の避難小屋。トイレはなく、水は徒歩5分ほどの水場を使う。20名ほど宿泊可。
弥山と行者還岳の中間にあったが早くから荒廃し、屋根があるのみでドアも窓もなくなっており、最後は倒壊寸前で緊急時に逃げ込む程度の利用も困難となっていた。2014年11月に解体。
行者還岳南側の鞍部にある。2003年に改築され、トイレや水場・自炊場・毛布を備えた2階建てのログハウス風の小屋になった。30名ほど宿泊可。なお、旧小屋は1970年代までは営業小屋であった。
山上ヶ岳の南側にある。5名ほど宿泊可。トイレはない。水場は小屋前にある。
大天井ヶ岳の北。林道から5分ほどの所にある、1995年建築のログハウス。小屋の近くに簡易トイレもある。10名ほど宿泊可。水場は徒歩5分ほどの所にある。
四寸岩岳の南にある。土間に細い腰掛けがあるのみ。天川川合ルート
弥山の北側、狼平にある。古くから避難小屋があったが、1999年に改築され、2階建てのログハウス調になった。トイレはなく、水は横の川を使う。30名ほど宿泊可。
狼平と登山口の間にある。老朽化のため扉も床もなく土間のみ。




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標高:2,986m
富山に位置する北アルプスの中央部の山で、別名を水晶岳というように水晶を含んだ小石が目に付きます。東側には複数のカール地形とモレーンがあります。北アルプスの主稜線から僅かに外れているため、登山者が少なく山頂はひっそりとしており、北アルプス中央部からの雄大な景色に浸ることができます
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標高:2,924m
北アルプスの中央部に位置し「裏銀座」と呼ばれるコースの代表的な山の1つです。ピラミッド型の美しい山容をもち、頂上からの景色は絶景で下流の湯俣から北鎌尾根、槍ヶ岳を一望できます。また山頂のすぐ下にある鷲羽池からの湖面に映し出される槍ヶ岳は素晴らしく、槍ヶ岳を眺めるには絶好の場所でもあります



















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































